今回のテーマが、すごく重要な部分になると考えています。なにしろ、出生前の検査についての『基本的な考え方』、根本のところに切り込む作業になるからです。
出生前検査・診断について常々言われることは、それが「倫理的な問題」につながるということです。(ときにこれを「倫理的に問題がある」と表現する人がいますが、それは間違っています。倫理的に問題があると言ってしまうと、出生前検査・診断そのものが倫理に悖る行為だということになってしまいます。そうではなくて、倫理に照らして議論の対象になる点を含んでいるものであるというのが正しい考え方だと思います)
だから、慎重に扱わなければならない。極端に振れた思想に基づいて薦められたり、強要されるようであってはならない。ある特定の集団のプロパガンダに利用されるようなことがあってはならない。私たちは、これまでの歴史を振り返り、先人の過ちを正し、この世の中をより良い社会にしていかなければならないという命題のもとで、どう扱うべきかを議論してきたのだと思います。
最も危惧されるのは、こういった検査・診断技術が、優生思想に基づいた考えに導かれたり利用されたりすることです。検査をどのような形で行なっていくことが相応しいのかという議論がずっと続いてきたのも、これをいかに回避するかを追求してきた結果だとも言えるし、この『基本的な考え方』にもそれが反映されています。
マススクリーニングの是非を問う
では『基本的な考え方』の内容を見ていきましょう。全部で9項目ありますが、ここではその一部を取り上げていきたいと思います。全ての内容については、以下のリンクから確認していただけるよう、お願いいたします。
https://jams.med.or.jp/news/061_2_2.pdf
ここでピックアップしたい項目の1番目は、
2. ノーマライゼーションの理念を踏まえると、出生前検査をマススクリーニングとして一律に実施することや、これを推奨することは、厳に否定されるべきである。
です。
「出生前検査をマススクリーニングとして実施してはいけない。」という話は、かなり以前から出生前検査が議論の俎上に上るたびに必ず言われてきたことですし、これまでに学会から出された「見解」や「指針」でも必ず述べられてきたことです。したがって、出生前検査に関わる医師は皆、これはもう絶対的真理のようなものとしてとらえてきましたし、私自身も疑問の余地なくそう考えていました。
しかし、ふと考えてみると、海外の国々の中には基本的に妊婦全員がこの種の検査を受けることになっているところもあります。そのことがごく普通のこととして受け入れられています。では、そういった国々で行われていることは、倫理に悖る悪の所業なのでしょうか。なぜ、日本では「出生前検査をマススクリーニングとして実施してはいけない」ということが、なんの疑いもない常識のようになっているのかを考える必要があると思いました。そこで、実際にどのようなものがマススクリーニングとして行われているのかを考えてみることにしました。
私たちの身近にあるマススクリーニングで、すぐに頭に浮かぶのは、先天代謝異常や内分泌疾患の早期発見を目的とした「新生児マススクリーニング」です。こちらのマススクリーングは、とても大事なこととして、全新生児が漏れなく受けるべきものと認識されています。全員に推奨される「新生児マススクリーニング」と、行うべきではないとされる「出生前検査」、この二者の違いは一体なんでしょう。
胎児診断の連続性と、その途中にある不連続
この違いは要するに「目的」の違いということになります。新生児マススクリーニングが大事だとされる理由は、この対象になっている疾患を早期発見することが、早期からの対処・治療につながり、それが疾患を持つ子どもの健康に直結し、ひいては国民全体の福祉に貢献するからです。それでは、「出生前検査」はそうではないということなのでしょうか。
出生前検査によって、胎児の段階で胎児が持つ問題(病気や障がい)について早期発見することにはどういう意味があるのか、早期発見が誰の為に良いのか。ここの捉え方次第で、出生前検査の見方は大きく違ってきます。
妊娠中の胎児の観察は、妊娠初期から出産までの間、連続した事柄です。昔ならいざ知らず、今は超音波診断装置の普及によって、妊娠の早い時期から出産直前まで切れ目なしに胎児の様子を観察することが可能です。この間に、何らかの問題を発見し、可能であれば対処することは、医療としては当たり前のことと捉えられているでしょう。例えば、胎児が思ったよりも小さく、明らかに子宮の中では発育が止まってしまい、そのまま放置していては死に至ることが発見されたならば、急いで子宮の外に出して新生児医療の力を借りて育てていくことで救われる命はたくさんあります。このことを発見できないままに、いつの間にか胎児が亡くなっていたなら、その妊娠経過を見ていた医師は責を負うことになるでしょう。産科の診療とはそういうものです。あるいは、胎児に心臓の病気が見つかり、生まれてすぐに対処しないと命を失う状況にあることが判明したなら、出産の時点から迅速に対応することが可能な専門的施設での出産が計画され、それまでかかっていた産院から周産期センターへ移ることになります。この心臓の病気がもし生まれる前には見つかっておらず、生まれてから呼吸の状態が悪く、酸素を吸わせても肌の色が良くならない状態が続き、慌てて新生児の受け入れができる病院に連絡し、時間をかけて搬送したのちに診断がつくという流れの場合、治療成績や救命率には大きな差が出ます。こういったものは全て「出生前検査・出生前診断」によって、救われる命ということになるわけですから、明らかに「出生前検査」は公共の福祉に寄与するものであり、皆が享受することのできる医療となるべきだという考えで、私たちはこの分野に取り組んできました。
では何が問題なのか。それは要するに、検査の結果を受けて検討される選択肢の中に人工妊娠中絶があることです。先ほど、胎児の観察は連続したものと書きましたが、実はこの連続性の中に不連続なターニングポイントが存在しています。それが、人工妊娠中絶を選択できるか否かの境界(現在の日本では妊娠22週と認識されています)であり、その選択が容認されるかどうかの判断基準(日本では母体保護法14条)です。
「出生前検査をマススクリーニングとして一律に実施することや、これを推奨することは、厳に否定されるべき」という考え方の根本には、「検査の結果をもとに人工妊娠中絶が選択されてはいけない」という考えがあります。『基本的な考え方』の中のこの文章の冒頭にも、「ノーマライゼーションの理念を踏まえると」の一文があります。
ノーマライゼーションの理念を踏まえて
「ノーマライゼーション」の理念とはなんでしょうか。それは、もともとは1950年代にデンマークの行政官ニルス・エリク・バンク=ミケルセンによって、知的障害者施設における人権侵害をなくし脱施設化を図る目標に向けて提唱された考え方で、その後世界に広まり、現在では「障害のある人も、障害のない人も、ともに地域の中で同等に生きる社会こそが通常の社会である。」という考え方、理念とされています。そうすると、この『基本的な考え方』では、障害のある人、ない人の双方が同等に生活する社会になるためには、出生前検査を一律にマススクリーニングとして実施したり、推奨してはいけない、厳に否定されるべきである。ということになるわけですが、厳密にいうと、この文章には矛盾があるように感じます。前段と後段とのつながりが、必ずしも一致しているわけではないと思うのです。本来、「ノーマライゼーションの理念を踏まえ」た場合に「厳に否定されるべき」ことは、検査結果に基づいて中絶を推奨したり、検査することが差別の助長につながるような利用のされ方をされること、またこの種の検査が不安をあおることによって成り立つ商売に利用されることなのであって、検査を推進することそのものが否定されるべきというのは正しくないと思うのです。「出生前検査を一律に行うこと ≠ 胎児の問題(病気や障がい)を理由に妊娠中絶を行うこと」なのに、まるで出生前検査が中絶を目的として行われているような印象をお持ちのかたが、あまりにも多いのではないかと感じています。
こういうことを言うと、「でも実際にNIPTを行なって、陽性結果を得た人の9割が中絶しているではないか」と仰る方が居られることと思います。それはもちろん事実です。だからと言って「出生前検査を一律に行うこと=胎児の問題(病気や障がい)を理由に妊娠中絶を行うこと」ではないことには変わりはありません。「9割が中絶」と言うのは現状なのであって、もし中絶する人が減るべきであるならば、中絶が選択されないように社会状況を、人々の意識を、あるいは医療そのものを変革させていくべきなのであって、出生前検査を普及させないようにするのは、方向性が違っていると思います。
それならば、現状が変革されて、むやみに中絶されてしまうようでなくなってはじめて、出生前検査を普及させるべきではないか、という意見もあることでしょう。しかし、現実にそんなことが可能なのでしょうか。同じような意見はもう20年以上前からあるんです。そしてその考えに基づいて、日本の出生前診断はずっと停滞し続けています。そして本来連続性があるはずの出生前検査・診断が、ある特定の一部分の問題が解決していないからといって規制されてしまった結果、本来必要な、明らかに公共の福祉に貢献する部分までが進歩をとめてしまうことにつながって、生まれる前に見つけられるべき疾患が多く見落とされている現状があるのです。
思考停止せず、考え続ける
というようなことをいろいろと考えてくると、妊娠・出産に関わる多くの医療従事者がこれまで絶対的な真理のように考えていた(そして私自身もそういう認識を持っていた)、「出生前検査をマススクリーニングとして一律に実施することや、これを推奨することは、厳に否定されるべきである。」の一文についても、思考停止に陥ることなく、本当にそうなのかともう一度見直す必要があるのではないかと思います。
もちろん、マススクリーニングとしてしまうことは、例えば国単位ならその国の社会のあり方そのものに大きく影響する施策になりますので、どのような検査方法で何と何がその対象になるのかについて、慎重に考える必要があります。現実的には、やはりマススクリーニングにはある一定の思想が入り込む恐れが強いことは事実ですので、マススクリーニングではなく希望者が対象になり、希望しない人は受けなくても非難や批判を受けることのない検査という形が理想でしょう。現状は、検査を受けたい人や受けようとする人、受けた人が理不尽に批判されたりすることがある一方で、検査を受けないでいた人が心ない言葉を投げつけられたりもするという、どちらにしても健全ではない部分が垣間見えます。これまでのように出生前検査について、まるで腫れ物に触るように扱いつつ美辞麗句を並べて、よく考えて慎重に扱っていますという形を大事にするために、これから出産する妊婦さん達にその皺寄せがいくような形ではなく、オープンに議論しつつ、より良い形をみんなで考えていくことが望まれます。マススクリーニングとして行うことは良くないという考えが拡大解釈されて、「妊婦全員に推奨すべきものではない」とか、これまでのように「周知すべきではない」といった方向に流されてしまうことは、正しい方向性ではないと私は考えています。正しい情報を得た上で、検査を受ける・受けないを自ら決め、どちらの選択も非難されることなく堂々と選べるようにしたいものです。
長くなったので、この回は一旦ここで中断とします。