公開討論会「“できる”ことはすべてやっていいのか? “ダメ”だとすれば誰が止めるべきなのか?ー」
2023年4月2日、日本産科婦人科学会主催の公開討論会『生まれてくるこどものための医療(生殖・周産期)に関わる「生命倫理について審議・監理・運営する公的なプラットフォーム」(公的なサポートを受けアカデミアと社会が共同して設立する)についての公開討論会「“できる”ことはすべてやっていいのか? “ダメ”だとすれば誰が止めるべきなのか?ー」が開催されました。
この討論会の主旨は、生殖補助医療の技術がどんどん進化する一方で、これに伴って生じる新たな生命倫理に関係する課題を、どのような形で制御・管理することが、これからの社会にとって必要なのかを論じるということでした。
具体例を挙げると、凍結胚の使用や精子・卵子提供による体外受精、代理懐胎などといった新しい生殖補助医療の結果生まれてきた子どもたちが、出自を知る権利の問題、嫡出子として認められるか否かなど親子関係の法整備など、多種多様な問題が存在しています。
これまでは主に、こういった問題が生じうる生殖補助医療の扱いについて、日本産科婦人科学会が中心になって、この種の医療を扱う会員を対象に、会告や見解といった形での自主規制という形で制御してきました。
しかし、ここには様々な問題が含まれるため、学術団体としての一学会の中だけでは扱いきれないこともあり、もっと幅広い分野からの意見をまとめた上での公的な管理機関設置の必要性が論議され、英国の非府省型公的機関であるHFEAを一つのモデルとして実装を目指そうという提案を関係各所(国会議員、厚生労働省、医師会、医学会など)に向けて行ってきた経緯の説明がありました。今回の公開討論会は、この議論を社会に向けて発信することが主な目的ということです。
現在、以下のような形で公開されています。
公開期限:2023年4月16日(日)17:00
収録動画配信URL:https://sites.net-convention.com/for/public_platform_view
ご質問・ご感想URL:https://sites.net-convention.com/for/public_platform_view/enq.html
プログラム:https://www.jsog.or.jp/news/pdf/rinri_touronkai20230402.pdf
資料:https://www.jsog.or.jp/news/pdf/rinri_touronkai20230402_2.pdf
武藤香織(東京大学:医療社会学・研究倫理)、加藤聖子(公益社団法人 日本産科婦人科学会)の2名が司会を務め、木村正・日本産科婦人科学会理事長の挨拶より会が始まりました。
講演者は、以下のメンバーでした。
・自見はなこ(自由民主党参議院議員:小児科医)
・鈴木直(公益社団法人 日本産科婦人科学会)
・岡明(公益社団法人 日本小児科学会:小児科医・小児神経科医)
・小崎 健次郎(一般社団法人 日本人類遺伝学会:理事長・小児科医・臨床遺伝専門医)
・吉村 泰典(公益社団法人 日本産科婦人科学会)
・甲斐 克則(早稲田大学:大学院法務研究科)
・髙山 佳奈子(京都大学:大学院法学研究科)
・永水 裕子(桃山学院大学:法学部)
・神里 彩子(東京大学:医科学研究所生命倫理研究分野)
論者のバランスが気になる
私たちは、出生前検査を主な業務として行っていますが、妊娠出産に関連して、あるいはそれをきっかけとして、カップルや家族の遺伝に関連した問題を幅広く扱っています。その中で、これから妊娠を希望している方にとって、生殖補助医療技術を用いてどのような選択肢が得られるのか、相談を受け、ともに考える中でいろいろな問題に直面することも多々あります。
私たちのクリニックでは生殖補助医療を直接扱ってはいないものの、妊娠・出産に向けての具体的な相談に対応する立場として、直接関わる話になるので、常に関心を持ち、生殖分野を専門とする医師たちとも連携をとりつつ、問題解決に取り組んでいます。
そういった立場なので、強い関心を持って、討論会を拝聴しました。
討論会と銘打っていましたが、演者同士が直接討論をすることはあまりなく、講演会といった方が正しいと感じられましたが、話を聞いていて、私にとっては頷ける部分と違和感を持つ部分とがありました。
私自身もこの分野の医療に強く関わる立場にあるものとして、現在日本産科婦人科学会が推進しようとしている、公的プラットフォームの設置には両手を挙げて賛成します。公的管理は絶対に必要なことです。学会の自主規制だけで管理できるものではありません。一方で、懸念点は、その公的プラットフォームの構成です。バランスの取れた構成を望みます。
一つの例として、出生前検査認証制度等運営委員会が思い浮かびます。この委員会は、厚生労働省の専門委員会の報告書に基づいて日本医学会の中に作られた、厚生労働省の関係課も参画している組織という立て付けで、関係各団体からの代表者や有識者からメンバーが構成されていますが、小児科医の立場や福祉関連、障害者団体・家族会の意見は当事者として尊重される一方で、妊婦とその家族やこれから妊娠・出産を考える人たちを代弁する立場の人、実際に臨床の場で日常的に妊婦と向き合っている人があまり関わっていない印象です。
検査の普及について抑制的な意見が強く、実際に検査がどのように実施されているかを含めて今現場にある問題点について、十分に理解しておられるのかどうか、疑問に感じるようなメンバー構成だと感じています。
着床前診断についての意見に疑問あり
今回の公開討論会の中心的話題である生殖医療の分野でも、着床前診断というテーマがあるため、小児科医の立場の方々はこのことについての意見開示をしておられましたが、この部分が特に気になりました。
例えば岡明氏は、出生前検査認証制度等運営委員会の委員長を務めておられる方ですが、彼の講演では、冒頭からスライド内の文章のうち、
・病気を持つ子どもを排除することへの懸念
の一文が太字で強調されていました。この文に続いて、
・生命科学が目指すものは「子どもの誕生を望み、生まれてきた子どもを育む社会」のはずである。
との一文がありました。「不幸であると決めつけて最初から排除」とも仰っていたのですが、彼が出生前検査についてこのように認識しておられるのだとしたら、それはかなり偏った見方であると感じますし、そのような認識の方が出生前検査認証制度等運営委員会の委員長であるということが、根本的問題のように思われました。
なぜ、出生前検査・診断を考えるときに、それがいきなり直接的に「病気を持つ子どもを排除する」という思想に繋げられてしまうのでしょうか。「子どもの誕生を望み、生まれてきた子どもを育む社会」を目指す中で、出生前に疾患の有無を知ることがよくないこととされてしまうのでしょうか。彼が理想とする「共生社会モデル」を実現することと、出生前に検査し診断することとは、両立できないのでしょうか。
着床前診断に関しても、以下のような懸念点を示しておられました。
- 遺伝子レベルへの評価対象の拡大が、妊娠が成立する受精胚でも、検査の結果によって選択されないという形で排除されてしまう懸念
- 不妊症治療のための妊娠可能な受精胚の選択ではなく、優秀な胚を選ぶ出生児のスクリーニングとなる懸念
これはつまり、妊娠可能な、あるいは出産まで漕ぎ着けることのできる可能性のある胚ならば、選別せずに使用すべきということをおっしゃっているようなのですが、現場感覚としては現実的ではありません。小児科医として、すでに生まれてくることができたお子さんたちの診療に携わっておられる立場からの視点でしかなく、生殖医療の現場から妊娠・出産、そして育児へとつながる女性の立場を顧みる視点はないように感じられます。
この岡氏の講演のような内容の話は、これまでにもいろいろな場で聞かされてきたものではあり、このような懸念を持たれる方も大勢おられるという事実は真摯に受け止めつつ検査を扱い、診療にあたるべきという気持ちは持っていますが、出生前検査認証制度等運営委員会の委員長の立場にある方にこれを言われてしまうと、打撃が大きく、力を削がれる感じがしてしまいます。
「排除」云々に関連した話題の取り上げられ方など、言及したいことはまだまだあって、いずれまた文章にしたいと思っていますが、ここではさかのぼって、この討論会の主題について触れたいと思います。
妊娠は「生まれてくる」ことが前提なのでしょうか?
そもそも、この公開討論会を通して設立に向かおうという、「生命倫理について審議・監理・運営する公的プラットフォーム」は、生殖・周産期の医療に関わるわけですが、これらの医療について「生まれてくるこどものための医療」という表題がつけられていることは本当に正しいのでしょうか?
トップバッターをお務めになった自見はなこ氏は、その講演の中で、「こどもたちの最大の利益のため」と強調しておられました。もちろん、生まれてきたならば、生まれてきたこどもたちにとって最大の利益になることが目標になることはわかります。しかし、周産期医療には、こどもの利益と親の利益とが必ずしも一致しないケースが存在し、そのどちらが優先されるべきかという難しい命題に臨まなければならない現実があるし、まだ意思表示ができない胎児や新生児にとっての最大の利益とは何か、彼らの意思を誰が代弁できるのかという難しさもあります。
そしてそもそも、着床前診断に至っては、それは妊娠する以前の医療であり、これを「生まれてくるこどものための医療」と言われると何か違うように感じるのは私だけではないのではないでしょうか。
出生前検査・診断も含めて、まだ生まれてくることができるか否かも判断できないような段階のものまで含めて、「生まれてくるこどものための医療」とされてしまうと、違和感があります。
この国の生殖医療・周産期医療を担う立場の医師たちにとって、あるいはこの国を代表する指導層の人たちにとって、妊娠は「生まれてくる」ことが前提なのでしょうか。「生まれてくる」のが当たり前、普通という考えなのでしょうか。そして、受精卵として、あるいは胚として、胎芽として生命のごく初期段階に達したならば、「生まれてくる」ことが当然なのでしょうか。生まれて来れない命もあるのではないでしょうか。生まれてこないようにする選択も実際にはあって、それは法的に認められているものもあるのではなかったでしょうか。
日本産科婦人科学会が主催し、この学会の臨床倫理監理委員会が企画する討論会の題名としては、あまり相応しくないような言葉の使われ方がされているように感じました。どうしてこういう言葉の使われ方になったのでしょうか。何か格好をつけているのでしょうか、小児科学会に阿っているのでしょうか。
女性や親の権利への目配りも重要
最後に、すべての講演終了後、視聴者からの質問に対する質疑応答の時間がありましたが、この中で私が感じたことと同じような疑問を投げかけた方がおられました。
「本日の議論では、こどもの権利については大きく取り上げられているが、女性や親の権利についてはあまり言及されていないように思う。中絶時の議論では女性と胎児の権利が対立するが、女性や親の権利擁護については、どのように組み込まれるのでしょうか?」という質問でした。
この質問への回答のなかで、吉村氏が、SRHR (sexual and reproductive health and rights) の観点を勘案した母体保護法の見直しが必要であることに言及され、甲斐氏もこれに賛同されていたことは、私が今考えていることとかなり重なる部分があり、一つの収穫であったと感じました。