NIPT実施施設は増加傾向だが、出生前検査・診断の提供体制は順調に整いつつあるのか? その2

前回記事から続きます。

遺伝カウンセリングと「理不尽な意見」

 さて、東京女子医大の山本俊至氏は、実際にNIPTに関わる遺伝カウンセリングに携わる中で、検査を希望するカップルから発せられる“理不尽な”意見を聞くことがあると言います。

 それはどういうものかと言うと、「障害児のことをダウン症と呼ぶのだと思っていた」(このセリフは厳密にはおそらく間違いで、他のトリソミーや障害のあるお子さんを全部ダウン症だと思ってると言う人は実際にいる)というような明らかに誤りだと言える話もあるのですが、一方で「障害のある子が生まれると経済的にやっていけない」「自分たち親が先に亡くなるので最後まで面倒を見ることができない」「1つでもリスクを減らしたい」というような意見は、確かに誤解も含んではいますが、一概に“理不尽”と切り捨ててしまえない部分があるのではないでしょうか。

 これらの意見は実際に私たちも耳にすることが多く、そこにはいろいろな誤解があって、この誤解を解くことは容易ではないし、そのような誤解が蔓延することは問題であって、まだまだいろいろな情報提供が足りないとは感じます。

 彼が言うところの、この検査が『本当に自分たちにとって必要な検査かどうか、冷静に判断できているのか心許ない』のは、事実でしょう。ではどうすれば皆が知識を蓄えて冷静に判断できるようになるのかを考えると、それには幼少時からの教育しかないと思う一方で、それは実現不可能な理想でしかないと思えてきます。

 この点に関して彼は、『しかしながら、NIPTの遺伝カウンセリングの場は、中立的な情報提供と意思決定支援を行う場であり、カップルの誤った考えを正すための場ではない。カップルの考え方が必ずしも正しいとは思えなくても、実施したいという意思決定に寄り添わなければならないのが実情である』と書かれていますが、これには違和感があります。

遺伝カウンセリングとは「寄り添うこと」なのか?

 遺伝カウンセリングは、『実施したいという意思決定に寄り添う』ことなのでしょうか。もちろん、検査を受けようとして来談されるという時点で、検査に前向きな人が多いことは事実です。しかし一方で、まずどのような検査が自分に適しているのかを考えるための情報を得て考えて決めたいという動機で来られる方もいらっしゃいます。また、『実施したい』と考えていた方でも、話を聞いて考えが変化する方もおられます。遺伝カウンセリングは自己決定を支援する場ですので、もちろん『実施する』という意思決定をされた場合には、それを尊重します(寄り添うというのではなく)が、それではいけないのでしょうか。

 『カップルの誤った考えを正す』というのはどうでしょうか。この時に想定されている『誤った考え』『正しい考え』とはどういうものなのでしょうか。病気や障害を持つ方々の暮らしぶりやその生活への支援体制などについて、情報不足などに基づく『誤解』があるならば、その誤解に基づく考えを修正することは可能でしょう。

 強い誤解に基づいて『実施したい』と考えていた方でも、『正しい』情報を得たうえで理解に進むことができれば、遺伝カウンセリングの場が『実施したいという意思決定に』ただ『寄り添う』だけの場ではなくなります。

 難しい問題は、同じ情報を得ても人にはそれぞれの思想信条もあるし、物事の捉え方には個人による違いがあることです。人それぞれに違った背景もあり、たとえば海外などでは日本にいると感じる機会のあまりないぐらい多様な考え方や習慣、行動原理があります。そんななかで、どうやってカップルの考えが『正しい』か『誤り』かを決めることができるのでしょうか。どこに基準を置くのでしょうか。

ふわっとした「危惧」を元にNIPTへのアクセスを制限することは無理がある

 これに続く『小児科医はこどもたちの代弁者であり、その家族を擁護するべき立場でなければならないのである』という文章の後に、『妊婦がNIPTを受けることが常態化してしまうと、染色体異常があっても中絶を希望せず、自然に出産したいと思う妊婦に対してなぜNIPTを受けなかったのかという同調圧力が加わるようになることが危惧される。そのような世の中は、非常に生き辛い世の中ではないだろうか?』という論が展開されていますが、このような危惧を元に検査へのアクセスを制限するのは無理があるのではないでしょうか

 想定されているような事例は実際に存在していて、染色体異常をもつ児を連れている親に向かって、なぜ検査を受けなかったのだという声をかける人がいたという話は耳にしたことがあり、それはひどい中傷だと私も思います。しかし、このような話は染色体異常に限らずどこにでもあり、たとえば自閉傾向のある子の成育で苦労している親に向かって、やれ妊娠中の生活が悪かっただの、乳児期に与えていた食品がよくないだのといった言葉を投げかける事例は枚挙にいとまがありません。

 そしてこのような事例をなくすことも残念ながら難しいと思います。そしてこのようなことのない社会にするために必要な対策は、検査のアクセスを制限することではないと私は考えます。

(その3に続きます)