慣れないテレビ出演、なんとかこなしました
2024年8月23日放送のABEMA Prime 「出生前診断で陽性、そして中絶…背負い続ける葛藤 産まない選択を当事者に聞く」に出演しました。
TVスタジオに足を踏み入れること自体20年ぶりぐらいである上に、なんと生放送とのことで、自分が毎日取り組んでいる専門分野の話とはいえデリケートな内容も含んだものですし、下手なことを口走ってはいけないという緊張感をもって臨みました。
そういう慣れない環境下で、全く違う分野の方々数名を相手に、投げかけられる質問に対応するというのは、なかなか大変でしたが、それなりにはこなすことができたかなとは思います。ウェブサイトから視聴できる期間は限られているかもしれませんが、YouTubeでも(一部カットされて短くなっていますが)見ることができるようですので、ぜひ視聴していただけると嬉しいです。
しかし、出生前検査・診断に関係する問題にはさまざまなものがあり、私たちが日常感じているこれらの問題点について、しっかり議論や解説をして多くの方々にわかっていただくことは、短い時間では至難の業のように感じました。出演しておられる方々にもそれぞれオピニオンがあり、出てくる意見もいろいろな方向に向かいますし、たぶん番組に関わられた方々も、現場にいる私たちの行っている業務や直面する問題の奥深さは、なかなかわかっておられはしないだろうと思われました。
だから、番組内での発言や解説の図表など、いろいろと突っ込みたい部分や掘り下げて話したい部分もまだまだあったのですが、一人で深掘りして進行を妨げてもいけないと自重したところもあるし、何しろ場馴れしていないのでどの程度口を挟んで良いかもわからないし、いろいろと難しかったです。
出生前診断の「目的」とは?
さて、そんな中で、自分でもあとで見直してみたりもして、ここは少し解説しておいた方が良いかもしれないと感じられる部分がありましたので、ここで補足しておきたいと思います。ここでは2点取り上げまず。
まずはじめに気になった部分は、冒頭のナレーションでも進行役の国山ハセンさんのセリフにもあった以下の言葉です。
「出生前診断は、本来なら早い段階で異常や障害を把握して、心の準備や受け入れ体制を整えるのを目的としている。」
この後には、「にもかかわらず検査陽性後、中絶になってしまう率が高い」という話に繋がる流れがあると感じられる台詞になっています。しかしこれは正しいのでしょうか。
なぜ出生前診断の目的を勝手に限定してしまうのか。中絶という結論は本来の目的にそぐわない間違った方向性なのか。私はそうは思いません。診断はあくまでも診断、その診断に基づいてどのように対処するかというのはまた別問題です。
もちろん、産むことを選択される場合には、どのような治療法があるか、どのように管理するのが適切か、そのための医療機関の選択はどうすべきか、何をどう準備しておくべきか、利用可能な福祉施策・制度とその窓口はどこか、などの情報提供や連携・紹介に繋げられます。しかし一方で、胎児がこの状態だったらとても出産までたどり着けない、と考えられた場合はどうでしょうか。あるいは、治療の試みはあるけれど、完治するかどうかはわからないとか、治療法は特になく、皆でサポートして行くしかないとか、いろいろなケースが想定されて、そんな中で妊娠中絶を選択することだって合法的に可能なら、その選択だってあり得るわけです。
冒頭の言葉の立脚点は、「いかなる病気や障害があろうと、出産し育てることが本来あるべき姿」という考えではないかと思われます。実はこの言葉は、台本に書かれていた(生討論番組とはいえ、進行上大まかな台本はあって、特に司会進行役については台詞が書かれていたりする)ので、国山さんの考えに基づいたものではなく、番組制作のスタッフが考えたものだと思いますが、このスタッフが上記のような考え方に立脚しておられたのではないかと推察しています。私は、番組内では言及しませんでしたが、違和感を感じており、話の流れ次第では指摘しなければならないと感じていました。
(後編に続く)