ABEMA primeに出演して(後編)

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出生前診断「時期尚早」論の当否

 2点目は、安部敏樹さんが最後に語られた話です。彼は、特別養子縁組に関わってこられた中で、次のような感触をお持ちでした。

「アメリカやカナダでは、障害を持つ子どもたちに対して『この子たちはエンジェルなのだ、なぜこの子らを引き受けないことがあろうか。』というような、しっかり愛し育てていくという環境がかなり成熟している印象を持っていて、そういうものが片方にあってはじめて『選べる』という話が成立するんじゃないかと思う。日本では実際に障害を持った子が養子縁組先を見つけられないという話がかなりあって、そういう現状を見ると、まだその準備がこの社会にできているのかなというのが、ちょっとわかんないなという気がします。」

 実はこの種の意見は、以前から必ず出てくる話なのです。出生前検査の普及に異を唱える意見としてはいわば王道のようなもので、なかなか反論しづらいように感じられるし、検査・診断自体を否定しているわけではなくて、社会がまだそこまで(検査して選択するという考えにもとづいて実践していけるほどには)成熟していないから、まだ時期尚早なのではないかという慎重派の意見である点で、説得力があります。そして、皆が「そうだよな」と納得した結果、ずっと出生前診断は抑制的であったとも言えると思います。なにしろいつまで経っても社会は成熟しませんから。

 それで、番組内では私も頷いているわけですが、これは肯定的に認めるべき意見なのかということについて考えてみました。

 さてこの意見に関して、日本では社会はいつまで経っても成熟しないと書きましたが、それは何故なのでしょうか。あるいは、これを「成熟する/しない」で語ることは正しいのでしょうか。

日米の単純比較は難しい

ADA法の先進性

 アメリカと日本との違いを考えると、二つの側面があるように思います。一つは法的なこと、もう一つは社会の根底にある思想です。

 アメリカではADA法(Americans with Disabilities Act)(障害を持つアメリカ人法)という法律が、1990年に制定(2008年に改正)されています。これはアメリカ社会における雇用、公共サービス、公共施設、電話通信での障害者差別を禁止する公民権法です。この存在は大きく、他の国の障害者差別禁止立法に大きな影響を与えました。

 一方、日本はどうかというと、2006年に国連総会で採択(2008年発効)された「障害者の権利に関する条約」について2007年に署名し、その後の議論を経て2013年に「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」(通称:障害者差別解消法)が交付され、条約の批准に至ったという流れで、法の制定自体がアメリカより23年後になっていますから、この点についてはやはり単純に「遅れている」「成熟していない」という表現が当てはまるかもしれません。

 しかし、10年前にこの法が制定されていることは、たとえば25年前に血清マーカー検査が大問題になって厚労省から検査の存在を妊婦さんに「知らしむべからず」的な通知が発せられたところから、3年前に、全ての妊婦を対象に情報提供する方針に切り替わった背景に関わっているのではないかと思うのです。

キリスト教の影響が強いアメリカ社会

 社会の根底にある思想はどうでしょうか。彼の発言の中で、すんなり受け入れられているだろうなと思いつつ、考えてみたらちょっと気になるところがあります。それは、「エンジェル」というワードです。「エンジェル」と聞いて私たちの頭に浮かぶのは、お菓子の会社のキャラクターなどで描かれている幼児のフォルムで羽が生えて、頭上に輪が浮かんでいる愛らしい姿ではないでしょうか。そしてそもそもこの天使という存在がどういったもので何をしているのか、クリアにイメージできる人はどのくらい存在するでしょうか。

 そもそも「エンジェル」が神の使いとして登場するのは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典や伝承の中なので、私たち日本人の多くにとって、それは身近な存在ではありません。これらの宗教をベースとした文化の中にある人たちがイメージする「エンジェル」と、私たちの頭の中にある「エンジェル」とでは、そのイメージや存在感はかなり違ったものなのではないでしょうか。そして彼らが「エンジェル」と表現するとき、それはそう言った宗教的バックグラウンドがあった上で発せられる言葉なのではないでしょうか。

 アメリカ人の多くは、キリスト教的世界観の中で生きています。私は宗教にはあまり詳しくはありませんが、彼らが子どもの頃から聞かされてきた神が万物を創造した物語と、私たちがどのような話を聞いて育ったかが全く違っていることはわかります。アメリカの病院などに行くと、寄付によって助け合おうという文化活動が盛んに行われていることも実感します。こういった風習は、キリスト教的博愛主義と関連しているのではないでしょうか。つまり社会が形成されるバックにある思想に大きな違いがあると感じるのです。

 障害者を社会に受け入れる方法や考え方、態度などにも、これが反映されていると思います。だから、キリスト教的思想が色濃い欧米社会と、それ以外の社会とでは、出生前に胎児に異常が見つかった際の対応も大きく違っているはずで、それぞれ独自の思想信条があるものだと思います。なんとなく今は、この欧米的考えが「進んでいる」「成熟している」と考えられがちですが、だからその状態に追いつこうと考えたところで、バックグラウンドが全く違いますから、同じような考え方が浸透するとはあまり思えないのです。

日本社会の特性を言語化することの難しさ

 だから、この思想的背景を考慮すると、私たちには私たちなりのやり方があって良いものと思うのです。欧米と同等のやり方、形でないと同じ検査は普及させられないということはないと思います。日本社会の難しいところは、その根底にある思想が掴みにくいところではないでしょうか。私たちは特定の宗教に帰依しているわけではない人の方が圧倒的に多いと思います。その上、これまでの歴史の中でさまざまな宗教を表面的にかじって、なんとなく取り入れていたりするので、何を信じているのか、そもそも信心があるのかさえわかりません。それでいて根底には共通した心理、信心がありそうで、しかしそれをうまく言語化できません。

 ただ私は、もっと人を信じて良いのではないかと考えています。一部の厳格な考え方をする人にとっては気に入らないかもしれませんが、もっと普通に検査を普及させても、人々はそれぞれしっかり考えることができるのではないかと思います。この国の国民はそれだけ教育水準も高いはずだと思います。

特定の疾患の患者さんの感情も重要だが・・・

 出生前診断に関して、ある特定の疾患が診断の対象として特に注目された時に、実際にその疾患を持つ人やその家族が、自分たちは排除される側だという感覚を持ってしまうことはよく理解できます。自分と同じ病気の人は、あらかじめわかっていたら中絶されるのだ、要らない人という扱いなのだという負の感情です。しかし、そういった個人的な話(自分が必要のない人間なのか否か)と一般的な話(この病気があることがわかった時に、それでも産むか産まない選択をするか)とを混同するべきではないと思います。生まれてきて、社会の一員として生きている個人について、必要がないから切り捨てようとしているわけではないのです。

 どれだけ検査が普及しても、病気や障害を持ったお子さんが全て生まれてこない状況にすることはできません。また、病気や障害を持たずに生まれてきても、なんらかのきっかけで病気や障害を持つことになる人もいます。病気や障害を持つ人たちを社会全体でサポートして、可能な限り良い生活が送れるようにくふうしていくことや、なんらかの治療法が開発されていくことなど、今後もずっと続けられていくのです。それもありつつ、一方で、早期に判明した問題について、どう対処するかの選択肢の中に中絶があることも、ある意味命を賭して妊娠・出産をする女性の権利として認めうるものだと思います。

おわりに

 さて、この番組内にでた話題などの中で、まだまだツッコミどころはありながらスルーしたものもあって、例を挙げると、国山さんのご夫婦が選んだ検査が「クアトロテスト」であった話とか、フリップに出てきたNIPTの受検数の話とか、中絶→中断の言い換えの話とか、いろいろあるんですが、今回はちょっと省略することにして、最後に中絶の話題に関連して私が発言したことに追加をしておきたいと思います。

 番組のタイトルにもなっている「背負い続ける葛藤」という部分、今回取材をお受けになった彩さんも、「後悔はある」とおっしゃっていて、実際に今でもいろいろ考えるという話だったわけです。そこで私は、誰しも生きていく中での選択について、「違う選択をしていたらどうだっただろう」と考えることはあるというお話をしましたが、これを後悔というべきかどうかというと人によって違いがあるかもしれません。

 中絶は心理的にも身体的にも負担のかかる人生の重い選択ですから、簡単に忘れてしまえるものではないことは当然のことなのであって、しかしそれを殊更に「背負い続ける葛藤」という表現にしてしまうのはどうなのか、例えば出産を選択していたら葛藤を背負うことはないのか、などと考えてしまいます。

 どうしても番組を制作する段階で、中絶のイメージが「葛藤を背負う」結果につながるものとしてネガティブに捉えられている気がしてなりません。私が言いたかったこと、皆さんに考えて欲しかったことは、なぜ葛藤につながるのか、どうすればより葛藤を減らすことができるのか、ということです。

 その文脈の中で、現在の刑法堕胎罪と母体保護法のあり方の問題点について言及しましたが、どの程度伝わったでしょうか。つまりこういうことです。今の中絶は、一見、妊婦(とパートナー)が自分たちで選択しているようでいて、実際には刑法堕胎罪で有罪になるところを、母体保護法指定医に許可をもらうことによって罪を回避している形になっている(その理由も「経済的事由」などとつけられて、その事実を知ると違和感がある)ので、どうしても罪悪感がつきものになってしまう。

 人によっていろいろな考え方はあると思いますが、少なくとも自ら考えて選んだという結果であるならば、罪悪感は多少持ったとしても植え付けられるようなことにはならないはずなのではないでしょうか。学会などで話をしていても、中絶するにあたってはやはり罪悪感を持ってもらうことも必要と考えている医師も実際に存在します。このような医師の意識も、法のあり方が変わったならば、変化するのではないかと考えています。妊娠している女性が、産むか、産まないかをよく考えた結果、誰かに決められたり許可を得たりしたのではなく、自分の意思で選択したという結果であるならば、罪悪感をいつまでも引きずるということにはなりづらいはずだと考えています。