なぜこの国の“偉い人”は、自己決定・選択を好まないのだろうか? (遺伝カウンセリングは、不安を解消するための手段なのか?)

 前回のブログ記事で、「指針」を読みつつ問題点について考えたのですが、私が感じる問題点、出生前診断に限らずいろいろなところに類似のものがある気がしてきましたので、その点について記載しようと思います。

「発生頻度が高い」とは?

 前回引用したのと同じ部分なのですが、日本医学会出生前検査認証制度運営委員会「NIPT 等の出生前検査に関する情報提供及び 施設(医療機関・検査分析機関)認証の指針」の以下の部分が気になります。

NIPT が受検の選択肢となる妊婦は、従来本検査の対象となる疾患の発生頻度が高くなる以下の状態である*2。 (この後に上記5項目の記載)

ただし、対象疾患の発生頻度によらず、適切な遺伝カウンセリング*3 を実施しても胎児の染色体数的異常に対する不安が解消されない妊婦については、十分な情報提供や支援を行った上で受検に関する本人の意思決定が尊重されるべきである*4

*2  この状態にある妊婦に必ずしもNIPTを受検する必要性があるわけではない。

*3  連携施設では、不安が解消されない妊婦について、専門性の高い遺伝カウンセリングが必要と判断される場合は、基幹施設と連携する。基幹施設と連携した遺伝カウンセリングについては、IV【2】を参照。

*4 NIPT は、マススクリーニングとして一律に実施されるものではなく選択肢の一つであることを説明し、誘導的ではなく自律的な意思決定を促さなければならない。また、母体年齢が低下するほど陽性的中率は低下し、偽陽性例が増える等の検査の限界を十分に説明することが必要である。

 解説します。

 まず最初の文、「NIPT が受検の選択肢となる妊婦は、従来本検査の対象となる疾患の発生頻度が高くなる以下の状態である*2。」なのですが、この前提からして微妙な認識のズレを感じます。

 これ、本当にそうすべきなのでしょうか?“発生頻度が高”いと言う場合の、高い/低いの判定基準はどこになるのでしょうか。例として、ダウン症候群の発生頻度のグラフを見てみましょう。

 以下は、『出生前検査認証制度等運営委員会』のサイト内にあるグラフを転載したものです。

出産時の年齢とダウン症、18トリソミー、13トリソミーの発生率/縦軸最大値が10%のグラフ
出産時の年齢とダウン症、18トリソミー、13トリソミーの発生率/縦軸最大値が100%のグラフ

 どうでしょうか。このグラフを見て、何歳からが発生頻度が高いということになると感じるでしょうか。35歳と34歳とで、明らかな違いがあるでしょうか。35歳以上でないと可能性が高くないから検査対象にはなりませんと言われて、納得できるでしょうか。

 このグラフの元になったデータを見ると、たとえば出産年齢25歳の妊婦さんにおける21トリソミー(ダウン症候群)の発生率は、1/1383となっています。一方、出産年齢35歳の妊婦さんにおける18トリソミーの発生率は、1/3600です。この数字から考えると、18トリソミーはだいぶ発生頻度が低いということができそうです。じゃあ「発生頻度が高くなる」状態が検査対象となるのなら、ある程度年齢が高い妊婦でも、18トリソミーは検査する対象にはならないということのはずですよね。明らかに矛盾していませんか。

NIPTのあるべき姿とは? 遺伝カウンセリングの役割とは?

 考えてみると結局、NIPTが受検の選択肢となる妊婦はこれこれこういう条件に当てはまる人というような決まりをつくる必要が本当にあるのか。そうではなくて、妊婦自身がこの検査が自分にとって必要か否かを自分で考えて、受けるか受けないかを決定するのが本筋ではないでしょうか。そのために遺伝カウンセリングがあるんですよね。遺伝カウンセリングは自己決定をサポートする過程のはずです。*4にも書いてあるじゃないですか。「選択肢の一つ」だから「自律的な意思決定を促」すって。

 でもその前に書いてある「NIPTは、マススクリーニングとして一律に実施されるものではなく」というところがミソなんです。出生前検査がマススクリーニングになってしまうことへの忌避意識が強くて、「スクリーニング」という言葉さえ使いたがらない医師が多いんです。

 マススクリーニングという言葉から多くの人が頭に思い浮かべるのは、新生児マススクリーニングでしょう。生まれてすぐ(5日前後)の赤ちゃんの踵を少し傷つけて、そこから出てきた血液を濾紙に吸い込ませたものを検査センターに送って検査するやつです。重大な症状が出る前に、病気を発見して、早期に対処できるようにしようというのが目的で、先天代謝異常症や内分泌疾患がその対象となっています。長年続けられてきた代表例ですね。

 最近では、たとえば福島県民健康調査として若年者全員に甲状腺の超音波検査を行なって癌の早期発見をしようという試みがありましたが、これもマススクリーニングですね。しかしこちらは失敗例ということになるでしょう。

 要するに、たくさんの人たちを対象に、一律で検査を行おうというのがそれで、たくさんの新生児のなかから先天代謝異常症を早期に見つけ出すことは、治療につながるから良いけれど、出生前検査でトリソミーを見つけることについては、全員が受けなければならない検査にするべきではないという考え方です。

 では現在、このNIPTがどういう位置付けにあるのかを考えると、これは基本的に、検査を希望する人だけが自分でお金を払って検査を受けるという種類の検査です。全国一律に行っているわけでもなければ、行政から補助金が出るわけでもありません。それどころか、つい数年前まではこの種の検査の存在について、医師は妊婦に積極的に伝える必要はないとされていた検査なんです。

 それなのに、この検査が普及すると、皆が同調圧力のようなものを感じて、検査を受けなければいけないような空気になるんじゃないかとか、検査を一律に強制されることになりはしないかとか、そういう心配をしているわけです。いや正直、アメリカで臨床検査として開始されてからもう10年も経っている検査が、日本ではほとんど普及していない現状なんですよ。以下の図は、令和3年(2021年)1月15日に開催された厚生労働省の第4回NIPT等の出生前検査に関する専門委員会で日本産科婦人科学会から提示されたグラフで、つい最近のデータではないんですが、先日のABEMAプライムでも示されて、検査件数は増加傾向にあると認識されていたようなんです。でも実数を見てもらうとわかると思うんですが、検査を受けている人数はまだまだすごく少ないんです。

世界とかけ離れたNIPT実施状況の日本

 たとえば2020年の出生数は約84万人です。2019年度には、非認証施設がかなり増えてきて、たくさんの検査を行なうようになっていましたので、大まかにNIPTコンソーシアムでの実施数と同数が行われたと仮定してこれを加算しても検査を受けた妊婦さんは約3万人で5%にも満たない数です。先進国で、こんなにもこの検査の実施率が低い国は、珍しいと思われます。

 これほど世界とはかけ離れた状況にあるのに、検査を受ける人が増えると、なぜ検査を受けないのかなどと聞かれたり同調圧力に晒されたりして、検査を受けない選択がしづらくなるのではないか、そうこうするうちにマススクリーニングという形にされていくのではないか、などという想像のもとに、個々の妊婦が選択できるという形を避けて、この検査が「受検の選択肢となる妊婦」を限定しようとしているのです。

 どうもこの国で指導的立場にある人たちは、指導層ではない人たちに対して、「まだ知識の乏しい人たちには判断力が足りていないので、わかりやすい基準を作って、それに当て嵌めるように指導しよう。」という発想になって、情報提供した上で考えて判断し、選択できるようにしようという発想にはならないようです。

 子どもの頃、通学していた学校には誰がどのような手順を踏んで決めたのかが明らかではない「校則」があって、その中のいくつかのものは、そう決められている理由がよくわからず理不尽だと感じるものまでも、決められた校則だからというだけの理由でそれに従うことを求められてきた人も多いと思います。「生徒会」はあっても、生徒たちが民主的手順を踏んで自主的に規則を変更していくようなところは、ほとんどなかったのではないでしょうか。私たちは、そのような教育環境のもと、規則というものが決められていてそれは守らなければならないものなのだということを刷り込まれて育ったように感じています。

 このことが、本来ならば決めておく必要のないものにまで「適用基準」のようなものが決められていて、人々の生き方・考え方や社会状況が変化しても、一度決めた基準はなかなか変えられないという形で残ってしまっているものが多いように思います。そして、変えるには反対意見も出てきて対立が起こったりするので、都合よく解釈してうまく運用できるようにして議論から逃げようという対処がなされることが多いです。

規則が作られた時代と現代の違いを考えなければならない

 たとえば、人工妊娠中絶の要件を規定している「母体保護法」(胎児に問題があって中絶する選択をするのではなく、経済的理由で中絶する形をとる)などは、その最たる例ですね。

 でも規則が作られたときにはそんな技術が使われることは想定されてなくて、どうにも当てはめられないというものがそのままになってしまうものもあります。たとえば、双胎(ふたご)の片方の胎児に重大な問題があった場合、その重大な問題のある胎児については薬物投与などの方法で心拍を停止させるという「減胎」の処置は、母体保護法の中では規定がなく(人工妊娠中絶の定義に当てはまらない)、実施することが実質できない(ごく一部の勇気ある医師のみが、あまり大っぴらにではなく実施している)状況になっていて、これをなんとかしようという動きが出てきません。これを実施できるか否かで母体の健康にも影響するので、必要に応じて実施できるようにしなければならないはずなのですが、胎児の問題を理由に人工妊娠中絶をするということも問題になってしまう母体保護法も曖昧なまま運用されていることもあって、なかなか話が進まないのです。

 このあたりの問題は、着床前診断の運用にも影響を与えていて、私たちの考えからは理不尽と思えることも多いのですが、話が長くなるのでまた別の機会に取り上げたいと思います。

 何しろこの国において「指導的立場」にある人たちは、自分たち以外は「指導されるべき人たち」と認識していてそういう人たちに情報提供して自己決定してもらうという発想になりづらいようです。昨今話題の「選択的夫婦別姓」についても、長年にわたってなぜ実現しないのかさっぱりわかりませんね。選択してもらうことの何が問題なのでしょうか。選択権を与えること自体が認められないのはなぜなのか、似たような構造なんじゃないかと感じています。

そもそも遺伝カウンセリングは、不安の解消が目的なんでしょうか。

 それで、最初のほうで紹介した指針に戻るんですが、この中の

適切な遺伝カウンセリング*3 を実施しても胎児の染色体数的異常に対する不安が解消されない妊婦については、

というところが、気になるんです。なんか妙な文章ですよね。

 「適切な遺伝カウンセリング」が実施されたなら、胎児の染色体数的異常に対する不安は解消されるのでしょうか。そもそも遺伝カウンセリングは、不安の解消が目的なんでしょうか。

 私たちは、遺伝カウンセリングを受ける人たちの全てが、結果的に不安を解消できるものとは考えていません。人々が持っている不安というものは多岐に渡り、その中身も程度も違うわけですし、人によっては長年にわたってそれを抱えてきているわけです。それが、遺伝カウンセリングが「適切に」行われれば綺麗に解消するものではないはずです。むしろそうできると思っている方が「驕り」があるのではないかとさえ思います。むしろ、不安は不安として、その不安がある中でそれと向き合い、どう対処していくかを考えるなかで、向き合い方や対処方法に関するアドバイスを得て、自分で進む道を決められるようにすることが遺伝カウンセリングのゴールだと思います。私たちが考え、実践している遺伝カウンセリングと、運営委員会が考える「遺伝カウンセリング」とは、違ったものなのでしょうか。

 「適切な」遺伝カウンセリングさえ実施できれば、普通は不安が解消されて、NIPTを受けなくても良いと考えられるようになる、というのが理想のゴールなのでしょうか。世の中には、その考え方や生き方、価値観にさまざまな違いのある人たちが存在しているのに、「自分たちの考える理想」に当て嵌めるべきだという考えが見え隠れしていないでしょうか。

 出生前検査・診断の認証制度をつくるにあたって、この10年ほど「遺伝カウンセリングが大事」と言われてきたその「遺伝カウンセリング」が、出生前検査を丁寧に扱っていく中で、検査を検討している人への遺伝カウンセリングをきちんとやりましょうと指導する立場の人たちの間で、なんだが本来あるべき姿とは違うものとして認識されているようで、すごく気になっているのです。