初めにお断りしておきますが、この記事は11月中旬に書いていたもので、途中でいろいろと忙しくなってしまい、仕上げられないまま月日が過ぎてしまいました。気づけばすでに年末。しかし、せっかく途中まで書いていたので、なんとか仕上げて公開しようと考えました。考えていることはいろいろあるのですが、この記事が今年最後の記事になるかもしれません。では、お読みください。
秋は学会の季節。例年、様々な専門分野の学会の多くが、この時期に開催されます(春に行われる学会もあります)。私にとって、例年この時期におこなわれる大きいイベントは、ISUOG(国際産科婦人科超音波学会)の学術集会と日本人類遺伝学会の大会です。
ここ2年は、新型コロナウイルスのパンデミックの影響で、どの学会・学術集会も、遠隔会議・配信方式や現地参加も含めたハイブリッド形式での開催となっています。直接顔を付き合わせて議論したり、夜に連れ立って食事をしたり酒を酌み交わしながら、議論の続きを楽しんだり、といった醍醐味は薄れる一方で、職場にいようと自宅にいようと、好きな場所好きな時間に参加が可能になり、同じ発表を何度も試聴し直すこともできるという良い面もあります。
そういった中で、今回は、日本人類遺伝学会に関連して最近あったイベントの中で、気になったことについて取り上げたいと思います。
医師たちが遺伝医学を学ぶイベント
ここで取り上げるのは、少しマニアックなイベント「遺伝医学セミナー」です。このセミナーは、臨床遺伝専門医を目指す人と、すでに資格を持っているが知識や情報の更新をしたい人を対象としたもので、専門医取得や更新のためのポイントが稼げるという点もあって、いつも申し込みが始まるとすぐに定員が埋まってしまうという人気の企画でした。実行委員が中心になって企画を練り、専門医制度委員会のメンバーなどが講師となって講演を行う形となっています。そういう企画ですので、講義内容は入門編的なところもあり、私たちのような立場のものが定員枠を埋めては申し訳ないと思って、しばらく参加していませんでしたが、今回はweb開催となって定員枠が大幅に増加したので、久しぶりに参加してみました。
臨床遺伝学には、私が専門とする周産期・生殖の分野の他に、神経難病などの成人の分野や、小児、腫瘍といった分野があり、専門医は基礎的な知識はもちろんのこと、これらの分野全てにわたる経験を積むことが望まれます。しかし、大きい病院の遺伝診療部に所属して各診療科からの依頼を受ける立場でない限り、どうしてもその経験は自分が専門とする分野に偏りがちです。私たちにとっては、このようなセミナーで他分野の新しい知識を学ぶことは、貴重な機会なのです。また、過去に学んではいるが実践の場ではあまり使うことのなかった知識を再確認する場としても、大変ありがたい機会となりました。
ただ、自分の専門分野に関しては、やはりこれから学ぼうとする人がこの場でどういう情報を得るのか、どのような考え方を身につけることになるのかといったことが気になって、指導者側の視点で評価してしまいます。
プロ・ライフとプロ・チョイス
今回は、一点気になることがありました。それはやはり自分の専門分野に関係する講義内容でした。倫理に関する講義の中で人工妊娠中絶の話題が取り上げられ、そこでプロ・ライフとプロ・チョイスの対立に関する話があったのですが、どうもそのとらえられかたに違和感を感じたのです。
このプロ・ライフ対プロ・チョイスの問題は、多くの方にはあまり馴染みのないことかもしれませんが、アメリカでは長い間議論が平行線を辿っていて、歴史的にはいろいろな争いや事件も絡んで奥深いので、興味のある方には詳細を調べて学んでいただけると良いと思います。が、ここでごくごく単純化して述べるとするなら、人工妊娠中絶について、「胎児の命を奪う行為なので容認できない」立場がプロ・ライフ、「女性が自らの意思に基づいて選択すべきこと」という立場がプロ・チョイスということになります。こうやって書いただけで、勘の良い人は、これは厳密には二項対立になっていないのではないかとお感じになるのではないかと思います。そこがちょっと難しい点とも言えるでしょう。
この国では、どちらが優勢なのか?
さて、このプロ・ライフ対プロ・チョイスの対立が話題になる中で、今回のセミナーでどのように解説されていたかというと、そこでは「わが国においては、プロ・チョイスが優勢な状況にある。」という話になっていました。
これは本当なのでしょうか?私はすごく違和感を感じたのです。
講師の先生の論理としては、日本では妊婦の意思に基づいて普通に中絶が行われているし、例えば最近のNIPTを受けた方への調査でも、「陽性」判定が出たのちに染色体異常が確定された場合、9割の人が中絶を選択しているという事実もチョイスの結果ということのようでした。
しかし、この検査から中絶に至る過程に関してマスコミの記事で取り上げられるときには常に、「命の選別」という言葉が出され、中絶を選択する人だけでなくそこに至る可能性につながる検査を受けようとするだけでも批判的に語られがちなことも経験されます。“遺伝カウンセリング”外来でもなるべく検査を受けないように誘導されたり、産科外来などでは検査を希望することを非難されるようなケースさえあるようです。すごく曖昧で漠然とした「命」が絶対的な価値であるかのような教育が浸透し、中絶を行った女性が罪悪感を背負わされる空気が蔓延しているように感じます。
その選択は、本当に主体的な「チョイス」なのか?
以上のように、私の感じているこの社会の空気としては、むしろプロ・ライフ優勢というのが実感です。歴史的に、別の価値観が存在し同居していることから、結果的には医師の許可のもと中絶に終わっているケースが多いけれど、それは決して女性が主体的にチョイスした結果ではないと思うのです。
前の方で言及したように、この対立は奥深いもので、最終的に選択的中絶が多く行われている結果だからといって、それがプロ・チョイス優勢だとはとても言えるものではないということを、私たちは理解しておくべきであろうと思います。むしろ多くの女性は、心情的には自分が胎児の命を絶つという罪深い行動をとったという意識を抱えていることと思います。本当は産みたいという考えを持ちながら、夫やパートナー、家族などの意見に流され、あるいは半ば強要され、中絶せざるを得なくなっているケースもあるのではないでしょうか。チョイスせざるを得なくなった結果も含めて、チョイス優勢と括ってしまうことに、私は違和感を感じます。
では、どうなると良いのでしょうか。
対立が明確にならないこの国の文化
日本ではこの対立はなんとなく曖昧なのに対し、アメリカではなぜ対立が表立って明確になっているのかというと、プロ・ライフの考えの根底に信仰に基づく動かし難い信念が存在するからです。日本の場合、信仰そのものも比較的曖昧で、また土着宗教における命についての捉え方ももう少しおおらかだったこともあって、プロ・ライフの立場があまり明確にはならなかったのでしょう。しかし、近年の「命の教育」の浸透は、昔よりも「命」を尊重する考えの頑なさを強める結果につながっているように私は感じています。ここはすごく難しいところで、また別の機会にきちんと論じなければならないと思っていますが、命を尊重することや、その大事さを教えることはとても大切な事だということには、全く異論はありません。ただ、この場合の「命」というのは、何を指しているのか、どのような定義に基づいているのか、よく突き詰めて考えないといけないと思うのです。倫理的にすごく重要な課題であるからこそ、「命」にしっかり向き合うためにも、「命」とは何なのか、皆がよく考えるべきなのです。漠然とした考え、曖昧な定義のまま、信念だけ強めてしまうことのないようにしたいのです。
以上述べたように、日本ではプロ・ライフの考えが際立たないながらも、徐々に心の奥深くに浸透してきているように思います。では、プロ・チョイスの考えはどうなのでしょうか。日本で対立が明確にならない理由の一つに、プロ・チョイスの側も強く主張する人は多くはなかったことも関連しています。文化的にも、女性が自らの自由や選択権について意見表明することが簡単ではない社会が形成されていて、このことだけでなく、生活の多くの場面で女性が主体的に選択することが叶い難い現実があります。
上記の状況を見ていて、私の個人的印象としては、今この国ではどちらかというと実はプロ・ライフの意見が強くなりつつある、あるいは心の奥に深く浸透しつつあるのではないかと感じています。私は、個人的にはプロ・チョイス寄りの考えの人なので、なんとなくバランスが悪くなりつつあるように感じてしまっています。
中絶に関連する法の問題点に目を向ける
世の中にはいろいろな考えがあると思いますので、どう考えることが絶対的に正しいという真理に到達することは、さまざまな事柄において、そう簡単なことではないと考えています。ただ、少なくとも国際的な会議の場で議論される中で、この国のこの部分は人権を尊重するという基本的な部分で問題があるのではないかと指摘されるような点については、早急に改善を図るべきだと思います。具体的には、以前から何度か取り上げている堕胎罪の問題や、母体保護法上の配偶者同意の問題などについて、もっと真剣に向き合って変えていかなければいけないと考えます。今までのような曖昧さでなんとかなっていたようなやり方は、なんとかうまくやっていたというのは嘘で、その影には多くの傷ついた女性がいたということに想いを馳せるべきだと思うのです。