前回より続く
医学会指針には「中絶」という言葉は出てこないが、指針内のいくつかの記載から、『出生前診断後に人工妊娠中絶が行われうることは実質的に前提となっている』ことを踏まえ、人工妊娠中絶に関する日本の法制度を確認するに、『日本では中絶は合法だが、妊娠した人個人に中絶を決める権利はなく、「国(法律)と医師と配偶者」に認められ(許可され)て初めて妊娠を中断できるという法の建て付けである。』とまず、現状を前提条件として提示しています。
この前提条件下において、医学会指針を見直してみると、『「さまざまな選択の尊重と支援」という、個人の自己決定を尊重し、支える文言が記されている』が、『実際には、中絶を認めるかどうか判断するのは「国(法律)と医師と配偶者」』なのだから、『医学会指針は、意図している/いないにかかわらず、個人の選択肢ではなく、「国(法律)と医師と配偶者が妊娠した人に中絶を認める条件」を記していることになる。』『言い換えれば、医学会指針の文言は、実質「胎児条項」のように機能するということである。』と指摘しているのです。
この結果、『堕胎罪・母体保護法・医学会指針という3つのセットは、NIPTの優生的側面を、図らずも強化するのである。』としています。
『医学会指針が従来のどの指針よりも福祉やケア、サポート体制に心を配り、検査の適正運用を目指して策定されたことは経緯をみても明らか』であるにもかかわらず、この指針が優生的側面を強化することに寄与してしまった根本はどこにあるのか、氏は、堕胎罪+母体保護法という根底にある法の枠組みに問題点を見出しています。
『堕胎罪によって。国として「産まないことを禁じ」たまま、出生前検査による「妊娠中断」を認めることが、医学会指針から優生色を払拭できない原因である』と読み解かれたわけですが、これこそが、私たちが常々感じていた違和感の正体であり、本質をついたものだと思われました。そして、この問題の解決策としての提案2を記されていました。
『この問題を“解決”するには、人工妊娠中絶を「法的に」「個人の意思決定」の問題と位置づけた上で、出生前検査が優生的にならないよう慎重・適正な運用規約を規定していくしかないだろう。』
『国際的にも、性と生殖の健康と権利(リプロダクティブヘルス・ライツ:SRHR)が提唱されている。』
『障害の有無にかかわらず、すべての個人にリプロダクションの自由が保障されてはじめて、出生前検査指針“的なるもの”は、病気や障害への偏見から個人を守り、検査による優生社会の到来に「歯止め」をかける装置として機能する。ベースに人権とからだの自律がなければ、指針は倫理的に適正な手続きになり得ない。』
この考え方は、実は私たちが以前から考えていたことと全く同じでした。
産むか産まないかを、妊娠している女性が主体的に意思決定できることが何より重要で、誰か(現状では国と医師と配偶者)の許可を得てはじめて可能になるものではなくしたい、その許可を与えるための条件を当事者不在のまま決められてしまっていることも問題だし、本来そこにはないはずの「胎児条項」を暗黙の了解のように医師の裁量でつくってしまう(そして、実施に際しては「経済的理由」を無理やりあてはめて運用する)状況で問題視されなければ、違和感を感じつつも我慢している妊婦さんたちには、我慢を続けてもらえばよいという事なかれ主義が長いこと放置されてきたことに、今こそしっかりと向き合わなければならないだろうと感じています。
つい先日、フランス議会で、女性が人工妊娠中絶を選ぶ自由を憲法に明記する改正案が可決されたというニュースが入ってきました。
出生前診断の普及と、その結果としての人工妊娠中絶の選択への懸念という問題が浮き上がってきた今、私たちの社会はこの問題にどのように向き合うべきなのでしょうか。
フランス社会は女性の権利・自由とどのように向き合ってきたのか、今回の結論に至るまでにどのような道のりがあったのか、マクロン大統領はこの決定を「フランスの誇り」と言い多くの女性たちがこれを歓迎しているが、ヴァチカンは反対声明を出しており、世界の中でもさまざまな議論があることなど、私たちはよく知り、よく考え続けることが必要でしょう。そして、私たちの社会では、どのように話し合いを進め、どのような結論を見出していくのか、今回のNIPT導入で議論が沸き上がってきたのを機に、向き合っていく必要があると思っています。
(続く)