NIPT実施施設は増加傾向だが、出生前検査・診断の提供体制は順調に整いつつあるのか? その4

(前回より続く)

中絶だけに注目した議論がはらむ問題

それと、いつも気になるのは、検査を実施したり受検したりすることに対する批判的意見が、「命の選別」というワードで語られるように常に中絶を想定されていることです

出生前検査はNIPTだけではないし、見つかる疾患もさまざまなものがあります。中には出産にたどり着かずに子宮内で亡くなるケースもあれば、出産してもどうにも治療不可能なものもあります。NIPTの対象疾患であるトリソミーのなかにもそのようなケースがあります。

多くの議論ではそのようなケースが想定されているとはあまり思えず、中絶さえしなければ生きて産まれてくることができて、小児科医の手厚い管理を受けることができると思われているのではないかと感じます。その結果、妊娠中絶に対する忌避感情や罪悪感が醸成されているように感じます。

また、もし命の選別をしてほしくないなら、本来制限すべきは人工妊娠中絶そのものでしょう。検査を制限するのではなく、中絶を禁止するというような話にならないのはどうしてなのでしょうか。

検査に対して制限を強めようという立場の方が思い描く中心に常にあるのは、「ダウン症候群の胎児が中絶されることへの抵抗感」だと思うのです。NIPTが目の敵にされるのは、その検査対象の最大のものがダウン症候群だからでしょう。しかし、NIPTを制限しても、たとえば超音波検査でダウン症候群を発見するきっかけがつかまる可能性があります。他の病気は見つける努力をして、ダウン症候群だけは見つけないようにするということはできないのです。

だから、ダウン症候群の胎児が中絶されないようにするならば、本来は中絶そのものを禁止すれば良いのです。だいたい現実には胎児に染色体異常があって中絶するよりも遥かに多い数の、何の問題も持たない胎児がいろいろな事情で中絶されているのです。そういったケースについても、社会の受け入れ体制や福祉のサポートを充実させることで、中絶せずに済むようにして、中絶は禁止とするという方向に話をすすめるべきではないでしょうか。

どうも出生前検査の実施に関する議論では、結局噛み合わない部分が残されたままになっている印象なのですが、私の立場から見ると、検査の制限を望む立場の方々は、妊婦の診療の現場や妊娠中・胎児期に行う検査の全体像が見えていなくて、生まれてきて育っていく過程に深く関わる立場から、どちらかというと個人的な体験や事例をもとに語られているように感じられるのです。

そして、どうにも産婦人科医は信頼されていない。

これは産婦人科医の側にも多くの問題があるからだとは思っていますが、私が見てきた産婦人科医の様子というものは25年前に血清マーカー検査が日本に上陸した頃とはだいぶ様変わりしていて、人による違いが大きく、検査に積極的な人から消極的な人まで幅広く、むしろ小児科の先生方と同じような検査の普及をよく思わない考えの人が確実に多くなり、一方で中絶を積極的に勧める人は少数派になっている印象です。「妊娠中絶」という言葉を発することにすら後ろめたさを感じ、学会の場ですら「中断」という言葉を使ってしまう人が増えていることは、よくないことだと感じるのですが。

北里大学の齋藤有紀子氏の提案について

さて、このようにいつもの噛み合わなさを感じずにいられなかったシンポジウムだったのですが、そのなかで北里大学の齋藤有紀子氏の話の中には、私の感じる違和感の本質をついたものがありました。

氏は、NIPTは結果的にはどうしても母体保護法による人工妊娠中絶を前提とすることになると考えた場合に、検査の対象疾患が、中絶可能な対象疾患という捉えられ方になる事を問題視しておられ、日本医学会出生前検査認証制度等運営委員会が2022年2月に策定した「NIPT等の出生前検査に関する情報提供及び施設(医療機関・検査分析機関)認証の指針」のなかに、検査対象が明記された事について、かつて優生保護法において本人の同意なく優生手術を行うことができる疾患を「別表」としてリスト化していたことに擬え、この指針で病名を指定することはこれを復活させているように見えると指摘しておられました。

そして「提案1」として、「対象疾患」明記の見直し(明記を外す)を提案されました。羊水検査・絨毛検査・着床前検査など他のガイドラインは対象疾患をリスト化せずに運用されていることで、疾患差別の可能性を減らす副次的効果をもたらしているが、(NIPTの)医学会指針が疾患を具体的に名指ししたことで、他の指針の検査対象範囲が“曖昧”であると問題視され始めるかもしれないとも記載されていました

しかし、この提案は実際に検査を扱う立場の医師たちには、無理があると感じられるのではないでしょうか。検査の特性や開発経緯から考えて、何について調べるかということが前提にある検査だと思います。

羊水検査などの確定的検査と、その前段階のある特定の問題についてのスクリーニング検査という検査自体の性質の違いがあるので、比較して論じることも無理があると感じました。

そもそも、ある対象疾患について検査で調べるという行為は、純粋にその疾患の有無を調べるということが目的なのであって、その結果をもってその先どのような選択をするかは、切り離して考えるのが妥当なはずだと思うのです。もしその疾患について「陽性」判定が出た先に中絶という選択があることを問題視するなら、問題視すべきはその「中絶」という選択が妥当なのかどうか、あるいはその選択の存在自体が許容されるものなのかどうか、という議論になるはずで、先に中絶という選択が現に存在するからといって、検査そのものの対象にすべきか否かにまで遡って問題視することは、違うのではないかと思います。

したがって、残念ながらこの提案1については、やはり議論の噛み合わない部分と言わざるを得ない話のように思えたのですが、これにつづく論が本質をついているのです。

(続く)