出生前検査に関する専門委員会は、どこに向かうのか。これを機に、何が変わるべきなのだろうか。

2021年1月15日金曜日に、厚生労働省のNIPT等の出生前検査に関する専門委員会(第4回)が開かれました。例によって診療中でしたので、会議の全貌を把握する事は叶いませんでした(後日、動画が公開されることと思います)が、一部視聴できた部分に加えて資料などを見ながら、感じたことを述べたいと思います。

 

 厚生労働省のホームページに、会議資料が公開されています。

NIPT等の出生前検査に関する専門委員会(第4回)の資料について

ここには、議事次第と、資料1から3、そして参考資料7つが置かれています。

資料1 妊娠・出産、生殖に関する政策動向

資料2 取りまとめに向けた論点整理

資料3 NIPT実施の質の担保の存り方

  このブログ記事を書き始めた当初は、上記三つについて一つ一つ解説を試みようと思ったのですが、長くなってしまうので、全体を通して考えを述べたいと思います。内容については、ぜひリンク先へ飛んでご確認いただきたいと思います。

出生前検査そのものの良悪を決めることは可能なのか

 医療の進歩というものは、より良い診断方法、より良い治療方法の開発に基づいて前向きに進んでいくのが一般的です。しかし、出生前診断に関しては、新たなより良い検査方法が開発され実用化することが、騒ぎになってしまうのはなぜなのでしょうか。そして、検査を行わない選択が良いことのように言われてしまうこともあるのですが、本当にそうなのでしょうか。

 いろいろな病気の原因が解明されるようになってきて、その有無を知る方法も開発されるようになってきた中で、その病気につながる原因を見つけることが、単に治療につながるものであれば歓迎されるところ、解決策の方向性として、生まれてこないようにするという選択になることが、優生思想につながるとして忌避されてしまうわけです。ここで、皆同じ命なのだから選別は良くないということは、簡単です。考え方としても受け入れられやすいでしょう。しかし、当事者は複雑です。

 同じ病気を持つ人でも、考え方には個人差があります。ある人は、自分の病気がおこる原因となる遺伝子の変異を持つ子孫が生まれてこないようにする事は、自分の存在を否定されることのように感じて強い抵抗感を覚えるでしょう。しかし、別の人は、自分の子孫には自分と同じ大変な思いをしてほしくないので、この病気が出ないことがわかっている受精卵が選べるなら選びたいと考えるでしょう。前者の人は後者の人に対し、批判的になる場合があります。自分は幸せに暮らしているし、生まれてこなければよかったなどと考える事はない。大変な思いをしたというなら、悪いのは病気ではなく社会なので、社会を変革するべく行動すべきだと責めるかもしれません。しかし後者の人は、社会はそう簡単には変わらない、自分はそこまで強くあれない、自分の子孫が不自由なく暮らせる方を選びたいと考えます。

 どちらの考え方が正しいと、私たちは決めることができるでしょうか。後者の方に対して、「命を選別することは許されないことです。」と言い切ることができるでしょうか。前者の方に対して、「それはあなたのエゴです。」と切り捨てることができるでしょうか。

 つまりこの問題は、いろいろな立場の人が関係する上に、同じ立場の人の中にも違った考えが混在しているので、どんなに話し合いをしても明確な答を出すことは困難なのではないかと感じられます。この国の社会は、個々の人の事情や考え方をどこまで尊重できるのか、どういう選択なら許容されるのか、その選択の結果に対してどこまでサポートできるのか。国としては、この部分を明らかにする必要があります。

個々人の選択の機会を規制することが主眼で良いのか

 いま議論されていることは、国の政策として、妊婦全員が検査を受けることを義務付けられるかどうかということではありません。あくまでも、検査を希望する人が検査を受けることができるようにする提供体制を論議しているのです。議論を見ていると、この提供体制をオープンにすることの弊害として想定されていることは、障害者差別、排除につながることへの懸念なのだということがわかります。

 ならば本来、このことへの対応策として取り組まなければならないことは、そのよう差別のある社会ではなくすることでしょう。検査を受ける・受けない、検査の結果をもとに産む・産まない、という選択を個々人の考えに基づいて自由に決めることができ、そのどちらを選択した場合でも、そのことによる不利益を被ることのない社会を構築することができれば、検査そのものの実施について規制する必要はなくなります。

 今回の議論は、この国における出生前検査のあり方について、みんなでちゃんと考えましょうという場が得られたということだけでもそれなりに良い機会にはなっていると思うし、有意義な話し合いがなされていることとは思います。資料2内の『3 出生前検査に関する妊婦等への情報提供の在り方』にまとめられた内容は、悪くはないと思います(情報を得ることによってかえって不安を抱く、などといった意見には同意できませんが)。しかし、『5 NIPTの質の担保の在り方』が論点になっているところについては、違和感を感じました。この部分は、資料3として一覧表にまとめてあるのですが、結局、何らかの形で規制しようという発想が根本にあるわけです。これはもちろん、現在学会の認定を受けずにNIPTを行う医療施設(最近私の友人たちはこれを『野良NIPT』と呼んでいます)が急増していることに対する方策という側面がある(というよりそれがメイン)と思われるのですが、同時に、検査を希望する妊婦さんの側から見れば、アクセスを制限する方策に違いはありません。それに、ここで言われている『質』とは何の質を指すのか、指針の策定によって『質』を担保することが可能なのか、という疑問もわきます。

 現状では、検査が不十分な説明のまま闇雲に行われていることから、妊婦さんが混乱したり、不安に陥れたり、誤った選択に至ってしまうなどの事例が生じていることが、問題視されています。そして実際にそのようなケースは、当院に相談に来られるケースを見ていても、切実な問題だと思います。しかし、NIPTは、検出感度、特異度ともに非常に高く、偽陰性が極めて少ない検査です。そして、『陽性』結果を得る人は、NIPTコンソーシアムからの報告によると(35歳以上の妊婦を対象とした場合という条件になりますが)検査を受けた人の中の2%弱ですので、ほとんどの人が『陰性』の結果を得て、「ああ、良かった。」で終わっているのもまた事実なのだと思います。この検査を用いて商売に利用しようとしている医療施設は、この部分を利用して、重大な問題が生じていることについては人任せにするという点で、大きな問題ではあるのです。しかし違う視点から見れば、『陰性』結果が得られればその信憑性は高いという点で、これまでの検査に比べてたいへん優れたものだと言えるわけで、この優れたものを使用できない状態のままにされていることもまた問題だと思うのです。

正の側面が過小評価されていないか

 私たち医療従事者は、問題の生じたケースに直面することが多く、立場上その問題点ばかりが強く印象付けられる状態でいるのです。またこの検査に関するいろいろな問題について関心を持ち、議論している人たちも、どうしても問題の生じたケースが強く印象付けられた状態でいると思います。その印象にひっぱられて、この検査の本来の良さである正確性の高さや、検査対象となっている疾患の頻度から考えて、『陰性』結果を得て安心できる人の多さ、といった正の側面が過小評価されていないでしょうか。何かとんでもない問題を引き起こす検査という視点でしか見ていない状態に陥っていないでしょうか。

 専門家という人たちがいろいろとこねくり回している間に、最も不利益を被っているのは、一般の妊婦さん達です。自分のお腹の中の胎児が、元気に生まれてこれるのか心配することは、ごく自然な当たり前のことです。そして、そのことについて調べることのできる方法が開発され、実施可能になっている情報を耳にすることも増えてきています。そんな中で、少しでも心配を軽減して穏やかな妊婦生活を送りたいと願っても、それを規制されアクセスすることが叶わないという状況は、やはり理不尽だと思います。当院には海外に在住していた方や、海外からこられた方、親族が海外におられる方なども多く受診されますが、皆一様に「海外では当たり前にみんなが受けている検査なのに、なぜ日本では受けられないのか。なぜ日本では情報さえも与えられないのか。」とおっしゃいます。

  そもそも、NIPTについての情報が不十分な状態だと、妊婦さん達が混乱に陥ることが問題という主張は、一見妊婦さんたちの味方を装った意見ではあるものの、実情に即した意見では全くありません。なぜなら、NIPTやそれ以前に存在した母体血清マーカー検査について、妊婦さんが混乱しないように体制を整えるべきとどれほど主張しても、実際の妊婦診療の現場では、超音波で見えたちょっとした変化について、不正確な判断と曖昧な説明に翻弄されているケースは枚挙にいとまがありません。要するに妊婦診療の現場には、妊婦さんを混乱に陥れる状況が既に当たり前に存在しているのです。そしてNIPTを導入することは、むしろその混乱を鎮めることに役立つ部分があるはずなのです。

 

  現在のNIPTの状況を見ると、これを規制することはもう現実的ではないことがわかってきています。なんとか押さえ込もうという発想ではなく、健全に普及させることを主眼に置くべきではないでしょうか。本当に議論すべきは、医療機関を対象とした実施指針の策定の主体やその方法ではなく、この国の社会が、検査の普及が問題にならないような社会になるためには、どの部分を変革させていくべきなのか、そのためにはどのような方策が必要なのかといったところだと思います。そしてこれは、今回の資料1に示されたような妊娠・出産・生殖に関する政策の範疇で考えるのではなく、教育や障害者差別撤廃の仕組みづくりを整えていくことに力を注ぐべきではないでしょうか。