このブログは、テーマが絞られているため、読者層もごく限定されていて、いつも興味を持ってフォローしていただいている方々には感謝しかないのですが、できればこれまであまりこの分野の話題に興味を持っていなかった人にも、気づく/考えるきっかけになってほしいという思いがあります。ということで、たまには雑感のようなものも書いてみようかと思います。まあ、私は自分の領域以外のことはそれほど勉強している人ではありませんので、雑感でしかありません。何か間違ったことを書いているようなら指摘していただければ幸いです。
『コロナ禍』と言われるようになった、SARS-CoV-2(新型コロナウイルス)の感染者数も減少傾向となってきましたが、流行のはじめの方から緊急事態宣言に至るまでいろいろな情報をフォローしつつ、同時に世間の状況を観察して、いろいろと考えさえられることがありました。
これまでの経過を見ると、日本は諸外国と比較すると流行の拡大が緩やかなまま収束に向かっています。それは海外から見ても奇跡的だと感じられるレベルのようです。その理由については様々な説がありますが、決め手となったことはなんなのかは、まだ明らかではありません。今出ている様々な説のいずれもが、関連している可能性はあるかもしれないし、それらを複合した結果としての現在なのかもしれません。しかし、まだ誰も気づいていない(あるいは調査中ではあるが表に出てきていない)何らかの要因がありそうな気がしています。この先の第2波に備える意味でも、また別の変異ウイルスが流行する可能性に対する対策を練る上でも、検証を重ねて、何が良かったのか、どうすればより良いのかが明らかになっていくと良いと思います。
そんな中、今回印象に残ったことは、日本の人たちの行動はすごく統制が取れているなあということでした。日本では、感染者数が海外と比較すると爆発的に増えているわけではないとはいえ、医療の体制はギリギリの状態だったわけですが、諸外国がロックダウンしている中、もっとゆるい『緊急事態宣言』に呼応しての『外出自粛要請』『緊急事態措置』といった、強制力を伴わない方法で対応しました。要請に対して、皆横並びに従わないと、コミュニティから排除されかねない強い同調圧力が存在する空気が、国内に蔓延しているのかもしれませんが、国民一人一人が自制しようという意識を強く持っている印象がありました。
11年前に米国に渡り、ボストンで暮らし始めた頃、驚いたことの一つに、歩行者用信号を平気で無視する人が大勢いることでした。信号が赤でも、車の通行が途切れたと思うと、次々に横断歩道を渡っていきます。朝の通勤時間帯はこれが最も顕著でした。もちろん、交通量の多いところでは、さすがに渡る人は多くはなかったのですが、辺鄙な田舎で人影も車もまばらという場所であればいざ知らず、それなりに交通量のあるところでも、車が途切れる隙があれば渡ろうとする人が多いのです。アメリカは道が広いので、今車が見えないからといって、渡りきるまでにくるんじゃないの?と思うくらいでした。そのせいか、もともとそうなのかはわかりませんが、歩行者用の青信号の時間がすごく短いと感じることも結構ありました。歩行者用信号は、交通量の多いところではもちろん機能するし、そうでないところでは、あくまでも一つの目安として存在していて、自己判断が優先されているような印象さえありました。
この状況に慣れると、今度は日本に戻ってきたときに、信号待ちをしている人たちに逆に違和感を感じるようになりました。交通量の多い普通の交差点の話ではありません。そういう場所では、きちんと信号を守ることは当たり前の行動だと思います。そうではなくて、すごく狭い道を渡ろうとしている時で、かつ見通しの良い交差点で、明らかに車など来ないと判断できる時でさえ、信号が青になることを待っている人がほとんどだということに対してです。
『赤信号は渡ってはいけない』という規則があると、どのような場合であれ、これはきちんと守られなくてはいけないという認識が浸透していることと同時に、何人かが信号待ちしている状況では、自分だけが規則を破って渡ることはすごく悪いことをしているようで我慢するという状況が生まれているように感じました。「悪目立ちしたくない。」という感情と、「まあここで変に急がなくても、ちょっと待てばいいんだから。ここは大人の余裕を見せよう。」という考えが重なった結果なのだろうと思いますが、時には結構急いでそうでそわそわしている人でさえ、全く車が見えていなくてもきっちり青になるまで渡ろうとせず、青になった瞬間、早足で進み出すようなこともあるのです。『規則を守る』ということの重みづけが、かなりしみつかされているようなのです。そして、ちょっとでも人と違った行動をとると、すごく冷たい目で見られるような、同調圧力の強さが感じられます。
この規範意識の強さは、どこからくるのでしょうか。そういえば私たちは、学校生活の中で、『校則』というものに縛られてきました。学校にもよるのでしょうが、校則では髪の毛の長さからスカートの丈、靴下の色に渡るまで、事細かに決められていて、子どもたちは厳しく管理されているようなところがあります。最近、ある学校で、『マスクの色は白に限定』という規則がつくられたという話を聞きましたが、学校教育の中で、そういうスタンスが浸透している部分があるようです。そもそもこの『校則』なるもの、誰がどのような根拠で決めたのかがはっきりしないところがあり、私も中学・高校時代には全く納得がいかず、生徒会の力で変えていこうと運動した記憶があります。こういう閉鎖社会の中で、予め決められた何らかの規則を、構成員に当てはめようという考え、そしてそれを守らない場合には罰則を与えるというやり方は、いたるところにあり、わが国のように比較的外部からの侵入のない中で社会を安定させるには、好都合なやり方だったのかもしれません(この辺りは専門家の分析を知りたいと思います)ので、学校のみならず、家庭生活や社会生活の中でも、一度決められた規則を遵守することを求められてきたのかもしれません。
この規範意識の強さが、もしかしたら今回の全世界的なコロナ禍の中で、日本における被害が奇跡的に少なかったことの一員になっているのかもしれません。(もちろん、単純に規範意識というだけでなく、別の要因(例えば清潔観念や人と人との距離感)からくる生活習慣がちょうどよかった面もあると思うし、それ以上に専門家グループの対策や医療・福祉分野の充実(これは政策や体制の面ではなく個々の現場の人たちの働き。政策や体制については問題点が多い)がより強く寄与しているのではないかとも考えています。)しかし、われわれはこれからもこのやり方で良いのでしょうか?
今回わかったことは、外出自粛など行動を規制することは、日本人は比較的うまくやれるということでした。難しいのはここからです。いわゆる『出口戦略』というもので、この規制をどのように緩めていけば良いのか、緩め方の基準をうまく示せるのか。規制し続けることは、いろいろな不満が出るだろうけれども、この社会ではわりとやりやすいことでした。でも、うまく緩めていかないと、立ちいかなくなります。その時に、この規範意識の強い国民をうまく動かすには、細かい指針を示す必要があるでしょう。しかしその指針が本当に正しいのか、きちんとした検証と根拠に基づいているのか、私たちは考え続けなければなりません。まだ誰も経験したことがない問題に対応する際には、明確な根拠が示せないこともあるかもしれないし、根拠らしきものに基づいていてもうまくいかないことがあって、修正が必要になることがあるかもしれません。それでも、常に見直しを続けつつ、自分たちの考えと力を使わなければなりません。言われたことに従うだけでは、誤った道に誘導されて終わってしまう可能性が常にあることを私たちは肝に命じておく必要があるでしょう。
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規則・規範は常に見直されていく必要があります。過去には正当であった規範も、新たに判明した事実の前では無力になることさえあります。今、私たちが直面している出生前検査や着床前検査などの技術をどう使用するかという問題も、昔決められた法律の範囲には収まらないことが増えてきています。今手元にあるような知識や技術が行使できることなど想像もされていなかったような時代の法で、この新しい時代に出てきた問題を裁こうとしても無理があります。この問題は、今後もこのブログで取り上げていきたいと考えています。
最近、友人から教えてもらった記事で、タレントの東野幸治さんが、自身のYou Tubeチャンネルで語った内容が印象的でした。
東野幸治「アップデートするべき」明石家さんまの問題点を指摘、時代の終わりを語る – wezzy|ウェジー
これまでの『あたり前』の感覚で、いつまでもいてはならない、常にアップデートが必要なんです。この話はわれわれのいる医療業界にもそのまま当てはまる話だなあと思いました。
と同時に、そのアップデートの必要性が、「周りがみんなそういう空気だから」ということに流されてのものではなく、自らの思考と他者の立場や考えに対する想像力・共感力によるものであることが大事だと感じました。
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話題を戻して、規範意識。
国民に染み付いているように思われる規範意識ですが、一度権力を握ると案外脆いもののようです。このところのニュースは、この国の舵取りをしている人たちには本当にこの規範意識はあるのか、と考えさせられるものばかりです。なぜこのようなことになってしまうのか。人とはそういうものなのでしょうか。
誰かが決めた規範は、それを決める側の人にとっては、ある程度自分の裁量で変えることができるものになってしまいます。権力を握ると、その規範は下々の者たちに守らせる種類のものであって、自分たちには適用されないものになるのでしょう。特権階級というやつです。民主主義の法治国家では、こういうことは起こりにくいはずなんですが、その理想に到達する道のりはまだまだ遠いのでしょうか。