「命」について(人はいつから人なのか、など)

「新型出生前診断」と同様に、マスコミが好んで使う言葉で気に入らないものの一つに、「命の選別」があります。これを「気に入らない」などというと、反発されそうなので、丁寧に論考しないといけないと考えているのですが、まずは「命」について考えてみたいと思います。なお、「命の選別」という言葉に対する違和感については、以下の記事に記しています。

「命の選別」という言葉によって、罪の意識を背負わされる妊婦さんたち – FMC東京 院長室

「命」というと、多くの人はどのようなイメージを思い浮かべられるでしょうか。命は尊いことは間違いがありません。時々報道などで耳にする、命が残念な形で奪われたり、まだ志半ばで命が途絶えたりする人たちの話を耳にするにつけ、人は命の儚さに思いを馳せ、命の大切さを実感することでしょう。しかし、現代に生きる私たちは、日常的に命について意識することは少なくなっています。なぜなら、命と向き合う機会が少なくなってきているからです。

今、ほとんどの人が病院などの医療機関で最期を迎えます。自宅で家族に見守られながら息をひきとる人は少なくなっています。ほとんどの赤ちゃんが医療機関で生まれます。現代人の生活では、「生」も「死」も、あまり身近なものではなくなってきつつあるのです。「命」がどのように生まれてきて、どのように終わるのかについて、自身の経験として実感できる機会は少なくなっています。そのような中で、「命は尊い」「命を大切にしよう」という言葉が、どの程度心に響くのでしょうか。実体験を伴わず、人から教えられただけの知識としてそれがあるなら、いざ本当に自分が命の問題に向き合わなくなった時、どのくらい判断力を働かせることができるでしょうか。実体験を積む機会が少ないなら、私たちは普段から、様々な物語をもとに考え続ける必要があるのではないでしょうか。

ここでは、考えるための命題を示したいと思います。「命」って簡単に言うけど、本当にイメージできてるの?という話です。

私たちはいずれ死にます。いつどのように死ぬのかはわかりませんが、必ず死は訪れます。どのように死ぬのでしょうか。医療が進歩して、医療技術によって命を伸ばすことができるようになってきています。終末期医療はどうあるべきかという問題は、医療の進歩とともによく語られるようになってきました。人間の尊厳とは何か、意思の疎通も図れないまま、ただ人工的手段で生きながらえることが幸せなのか、人は自分の死をどのように選ぶことが可能なのか、という命題が生じ、尊厳死を認める国も増えてきています。ここでは「命」が、人の手がどう加わるかによって、違った姿を見せます。「命」というものが、ただそこにありさえすれば良いという単純なものではないことの良い例です。

「命」の始まりは、どの時点なのでしょうか。私たちは、一つの受精卵から始まり、気が遠くなりそうなほどの数の細胞分裂を経て、だんだんと生物としての形態になり、受精から約38週間で母体から切り離され、一人の人間としての生がスタートします。ではいったい、どこからが「命」でどの時点はまだ「命」と考えなくて良いのでしょうか。そういう時期によって切り離す問題ではなくて、将来的に「命」になるものならばもうその時点で(その時点ではまだ「命」になっていなくても)選別してはならない尊いものなのでしょうか。

生まれてくる前の胎児は、人なのでしょうか。昔と違って、いまは超音波診断装置の技術が進歩し、お腹の中の胎児の姿を立体的な形でわかりやすく表示することが可能になりました。そうすると、もうすでに妊娠11週には、胎児は人間の形をして動いていることがわかります。人の形をしていると、それを見る人たちはもうそれだけで、胎児は我々と同じように寝たり起きたりしていると思ってしまったり、動作は何か考えに基づいていると思ったりしてしまうようです。でも本当は、胎児はまだまだ未熟なので、何もわかりませんし、何かに反応するわけでもありません。仮に針が刺さったとしても、痛みを感じません。ではいったい、どの時点から胎児は“人”なのでしょうか。

人工妊娠中絶は、日本では妊娠22週以前という目安があります。これは、

実はかなりハードルが高い人工妊娠中絶(前編) – FMC東京 院長室

で述べたように、胎外で生存が可能かどうかということに基づいて決められたものですが、本当にその決め方が正しいのでしょうか。

いざという時には子宮の外に出して(出生させて)治療が可能という観点で「独立して生きていける時期」という考えに基づいているのだと思いますが、出してしまえば治療できるというわけでもないし、22週で生まれてきた子が、40週で生まれた子と同じように育つわけでもありません。世間では、満期産で生まれた子だって、早生まれだった場合には、4月や5月に生まれた子との間で、幼稚園や小学校低学年の時に差が生じることが悩みの種であったりするのです。早産で生まれてきた子が、生まれた日を誕生日として扱われた場合に、満期産で生まれた子と同じように成長できるでしょうか。ただ時期が早いだけではありません。未熟なまま生まれたために起こる問題も多々あるし、そもそも早産で生まれなければならなかった理由によっては、そのほかにも合併症を伴っている可能性もあるのです。

日本では、胎児診断があまり積極的に行われなくなった時期があり、その時の状況が影を落として、問題になった染色体異常の検出のみならず、治療可能な疾患の診断までもが発展しないことにつながってしまったように、私は感じています。このため、今でも先天的な疾患が胎児期に発見される率は低く、また見つかる時期も遅いという状況が存在しています。つまり、かなり重篤と思われるような問題であっても22週よりも後に発見されることが多いのです。それでも、22週を過ぎていたら、胎外で生きていける時期の子どもなのだから、しっかり産んであげて、治療を優先しなければならないのでしょうか。

最近では、胎児期に見つかった問題について、生まれるまで待たずに胎児期にできる治療を施すケースも出てきています。ある種の疾患は、早い時期に診断されることによって、胎児期に手を加えれば予後を改善できることがわかってきました。もちろん、出生まで待つことができれば、生まれてから治療した方が良いのです。なぜなら胎児期に治療をするということは、母体にもそれなりの負担を与えることになるからです。しかし、病気の中には早めに手を打つことが良い将来につながることがあるのです。しかし、現在の保険診療の考え方では、胎児はまだ人として扱われていないので、胎児に対する診断や治療は基本的には保険給付の対象にはなりません。

一部の検査や治療については、先進医療などの制度を利用して、ある程度カバーされるようにはなってきています。しかし、根本的に胎児にはまだ誕生日もなければ名前もない。超音波診断には長い歴史があって、胎児の病気が見つかることはかなり当たり前のことになりつつあるのに、そもそも胎児は保険制度上は人として認められていないので、何一つ通常の保険診療の対象にはならないのです。羊水検査だって、全て自費診療です。胎児は、命が大切と言われるわりには、この国の制度上は全く大切に扱われていない、まともな人として扱われていないのです。ここにもっと目を向けるべきではないでしょうか。

この問題を考えていくと、産科診療になぜ保険が適用されないのかとか、もし胎児に何らかの問題が疑われて、心配になっていろいろな検査を受けるとしても、全て自費で多額の負担になるなど、いろいろな問題が浮かび上がってきます。

出生前検査・診断についてのみ、命の問題として問題視するのではなく、もっといろいろな問題があることを知ってもらう必要があるでしょう。元気な状態で赤ちゃんが生まれてこれるのか。もし元気ではなく何らかの病気を持っているときに、きちんと対処できるのか。病気の発見や胎児の状態の評価のために必要な検査や手技に、どのぐらいお金がかかるのか。将来の国民の健康のためにどのぐらい国が補助してくれるのか。いまの状態で、本当に少子化を解消することができるのか。

少し問題がそれましたが、「命」と一言に言っても、それは単純なものではないことをわかっていただけたのではないかと思います。「命は尊い」「命は大切」、そんなこと当たり前なのです。わざわざ言われなくてもみんなわかっているのです。そうではなくて、その「命」と言われているものには、実際どんな本質があるのか、どんな広がりがあるのか、自分の考えていたイメージで十分なのか、これからはもっとみんなが真剣に考えないといけない時代になると思っています。