「〇〇ちゃんがいない世界」というイメージづくりについて考える

 以前から気になっていたのですが、出生前検査の普及に関連して、「〇〇ちゃんのいない世界」というような題名のドキュメンタリー(?)番組がテレビなどで放映されることがあって、これにいつも引っ掛かりを感じるのです。このいつも感じる引っ掛かりについて、いつかきちんと言語化しなければと思っていました。

 よくあるストーリーとしては、ダウン症候群のお子さんのきょうだい児(兄や姉のことが多い)目線で、「もし出生前検査が普及したら、〇〇ちゃんのような子は生まれてこなくなる、出生前検査が普及した世界は、〇〇ちゃんのいない世界だ。」という想像に基づいた、「こんなに楽しく幸せに暮らしているのに、そんな世界じゃなくなるのは嫌だ。なぜ悪い大人たちはそんな世界を作ろうとしているのか。」といった気持ちの吐露を、きょうだい仲良く楽しく暮らしている日常の風景描写とともに映し出すものです。

 この種の番組は、感動を呼ぶとともに温かい気持ちにさせられる、ヒューマニズムに満ちたもので、高評価を得ているのではないかと思います。そこにケチをつけるとは、なんと冷たい、心のない人間なのかと批判されそうですが、私はこのようなイメージづくりは良くないと思うのです。

 あえて「イメージづくり」という表現を使いました。なぜなら、このような映像作品は、現実にあることのうちで製作者の意図に応じた一部のみを切り取っていると思うし、人々の想像の幅を狭めてある一定の方向に向かわせようとしていると感じるからです。

 検査が普及する →  〇〇ちゃんがいない世界になる

という想像自体、正しくない表現だと思います。

 どこが正しくないかというと、

これから検査が普及したとして、〇〇ちゃんがいなくなることはないのです。

 〇〇ちゃんのおかあさんが、「もしあの時検査が普及していて、私が検査を受けていたなら、もしかしたらこの子はここにいなかったかもしれない。」という想像をして、いろいろ考えることは、よくあることなのではないかと思います。この時に、

「こんなに可愛くて愛おしいわが子が、生まれなかったらよかったなんてとても思えない。」という気持ちが沸き起こることでしょう。同時に、

「もしこの子が生まれていなかったら、今頃生活はどうなっていただろう。」などと想像することもあるでしょう。

 いろいろ想像する中で、一人っ子の3人家族だったかもしれないし、また別の子が生まれていたかもしれないし、いくつかのバリエーションが頭に浮かぶことでしょう。また違った生活になっていただろうなと、考えることもあるでしょう。その方がよかったのか、いや今が幸せなのか、簡単に言い切れるものでもないだろうし、しかしそういう想像をさせられること自体、検査が出てきたせいならば、検査の存在は煩わしいのもまた事実でしょう。

 このように、大人なら、これまで生きてきた中での自分の経験などをもとに、いろいろな想像をして、考えることが可能です。

 しかし、子どもは違います。子どもたちはもっと単純かつストレートに、現在の生活の中で、〇〇ちゃんがいない状態を想像するのではないでしょうか。なぜなら、いろいろな人生の選択を自分でするようになるのは、まだ先だからです。〇〇ちゃんという身近な存在がいない状態を想像することは、強い喪失感を伴う体験でしょう。しかしそれは、検査が普及したとしても現実的にはあり得ない話で、むしろ検査をそのような喪失感と結びつけてしまうことは、検査に対する悪いイメージを植え付ける行為に他なりません。

 子どもたちに、身近なきょうだいがいなくなる世界を想像させるのは酷です。また、将来ある子どもたちが自分で考えるよりも前に、検査に対する悪いイメージを植え付けることは一種の洗脳行為に他なりません。そして、そういう想像をして子どもが悲しむ姿を他の人に見せて、見た人の感情を揺さぶるのも良くないことです

 『出生前検査 = 〇〇ちゃんをいなくする方法』という単純化、そして子どもを使って人々の感情を揺さぶろうという姑息さ、その上、子ども自身の心をも傷つけかねない悪いイメージの植え付け。という構図が見えてきます。

 正確に表現するなら、『〇〇ちゃんがいない世界』になるのではなく、『〇〇ちゃんと同じ病気の子が、生まれてきにくくなる世界』です。「〇〇ちゃんのような子は、生まれてこない方がいいと考えられているのは間違いだ。」「〇〇ちゃんが生きていることを否定されるようでよくない。」という意見や感情はその通りだと思うし、肯定されるべきでしょう。しかし一方で、人それぞれ違った思想信条があるだろうし、人のキャパシティにも違いがあり、現実社会における生活のありようも人それぞれです。病気のあるなしに関わらず、出産できないという選択をせざるを得ない人もいる中、可能な限り病気のない子であってほしいという考えも、自然なことかと思います

 検査が普及しても、完璧な検査など存在しません。〇〇ちゃんと同じ病気の子が生まれてくることが少なくなっても、また別の病気の子が生まれてくるかもしれません。

 検査が普及したとしても、それが義務付けられるというわけでもありません。検査を受けるか受けないかは、それぞれの信条に基づいて決定する権利があるのです。

 出生前検査の普及に対し、その対象となる疾患を持つ本人あるいはその家族が、当事者として否定的な感情を持つことは、想像に難くはありません。しかし、全ての当事者が検査に対して否定的なわけではありません。中には、自らの病気や家族の病気を次の世代には引き継いでほしくない、という考えに基づいて、積極的に検査を希望される方もおられます。病気の種類次第では、『〇〇ちゃんがいなくなる世界』になった方が良いと考える当事者もいるのです。

 出生前検査・診断は、ある一つの疾患のみを対象としたものではありません。世の中には、『出生前検査=ダウン症の検査』と単純に考えている人も一定数おられるようなのですが、生まれつきの病気にはもっと様々なものがあって、皆様々な暮らしぶりでいるということは、まだまだあまり認識されていないように思います。同じ病名がついていても、病気の程度にも違いがあるし、生活環境にも人による違いがあるので、一つの病名で画一的に考えることは避けなければなりません。

 出生前検査の普及が、マイノリティが生きにくい窮屈で差別的な社会につながることを危惧する声があることはよくわかりますし、なんとかそうならないようにしていきたいという考えを尊重しつつ、これから社会をつくっていく若い世代が、安心して妊娠出産に臨むことができ、これから生まれて育っていく新しい世代が、より健康的でいられるようであってほしい。そのためには、出生前検査に関しても、一定数の忌避感情を持つ方がおられることは理解しつつ、より良い未来に役立てることのできるツールとして、正しい(何が正しいかというのも簡単には決められませんが)使い方をしていきたいと考えます。

 無制限な普及に警鐘を鳴らしたいという気持ちを増幅させるあまりに、子どもたちに不要な忌避感情や対立感情を植え付けるようにならないよう、周りの大人は落ち着いてよく考えていけると良いと思うし、子どもたちを使うのではなく、大人が子どもたちの将来のためによく考え、行動していくべきだと思っています。